再会と黒猫(朔side)
日向さんは困ったように眉を下げながら、黒猫の背中を撫でた。
その手つきは、柔らかくて、優しくて、まるで割れ物に触れるみたいだった。
「……大丈夫です。猫にも好き嫌いがあると思うので」
「好き嫌い、か……確かに!」
彼女は腕の中のクロを見下ろす。
「クロ、久世くん、嫌い?」
「シャー」
「……即答ですね」
猫に威嚇された経験が、ないわけではない。
大学の近くにいる野良猫に触ろうとして引っ掻かれたこともあるし、友人の家の猫に靴下を奪われたこともある。
猫という生き物は基本的に自由で、気まぐれで、こちらの都合など一ミリも考えてくれないーーそういう生き物だ。
だが、クロは彼女の腕の中では大人しかった。
彼女に抱かれていることを当然の権利のように受け入れている。
なんというか――嫉妬。
(……いや、猫相手に嫉妬とか考えるな、俺)
「クロっていうんですか?」
「うん。黒いからクロ」
「そのまんまですね」
「名前はわかりやすいのが一番だよ」
日向さんは笑った。
「クロは、いつから飼ってるんですか?」
「飼ってる、っていうか……ある日、家の前にいたの。そうそう、あの日は、旦那の一周忌だったな」
「家の前?ってことは、野良だったんですか?」
「……うーん、たぶん?首輪もしてなかったし、しばらくの間は近所に聞いて回ったりもしたんだけれど、全然飼い主さん見つからなかったから」
彼女はそう言って、腕の中のクロを見下ろす。
「ねー、クロ?」
クロは返事をするように、にゃーと、短く鳴いた。
「それで飼うことにしたんですね」
「そうなの。保健所に連れてかれちゃうのは可哀想だしね。それに、全然家の前から離れなくて……」
「根性ありますね」
「でしょ?一週間くらい、家の前ににいたんだよ。雨の日も風の日も動かずにね」
「それは……」
さすがに少し言葉に詰まった。
一週間も、猫が同じ家の前に居座り続けるなんて、普通にあることなのだろうか。
彼女はクロの顎をくすぐりながら、少しだけ目を細めた。
「……変な猫ですね」
「まぁ、そんなこんなで……なんか、放っておけなかったんだよね」
俺は思わずクロを見た。
金色の瞳が、カーテンの隙間から溢れる夏の陽射しを反射して、硝子みたいに光った。
本当に、綺麗な猫だ。
腹が立つくらいに。
黒い毛並みは艶があって、よく手入れされている。
とても、野良猫だったようには見えない。
だけど、態度だけは最悪だった。
***
「……えっと、すいません。それで、今日はどこから始めればいいですか?」
俺は仕事用の声に戻した。
このまま話し込んでいたら、何をしに来たのかわからなくなる。
俺はあくまで、家事代行のバイトとして来たのだ。
墓地で一目惚れした人の家に偶然来て、しかも猫に敵視されている、なんて状況は、かなり複雑ではあるけれどーー仕事は仕事だ。
「えっと……できればリビングとキッチンを……」
彼女は少し気まずそうに視線を泳がせた。
「あと洗濯物も……」
「水回りは?」
「あ、そこも……」
「つまり全部ですね?」
「……はい」
彼女は素直に頷いた。
その様子が少しおかしくて、俺はつい笑ってしまう。
「あ、笑った!」
楓が俺を見た。
「久世くん、そんな風に笑えるんだね」
「……俺、そんなにずっと真顔でした?」
「うーん、そういうわけじゃないんだけどさ。ほら、墓地で私のこと、すごい顔で見てたからさ」
「それは……まあ」
「頭おかしい女だと思ったんでしょ?」
「……否定はしません」
「正直者だ!好きだよ、私そういうの」
彼女は声を立てて笑った。
「でもね、夫が好きだったからさ、花火」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
クロが耳をぴくぴくと動かしている。
「……あの時、旦那さんのお墓参りだったんですね」
「うん。三年前に病気で……ね」
「すみません」
「ううん。いいよ。もう三年経つし」
彼女は窓の外を見た。
夕方の光が、レースカーテン越しに部屋へ入ってくる。
散らかった本の背表紙も、片づいた床も、黒猫の毛並みも、全部淡い金色に染まっていた。
「……夏になるとね、よく写真を撮りに行ってたの。花火大会とか、お祭りとかーーね。私は人混みが苦手だったから、いつも文句ばっかり言ってたんだけど……。今思えば、もっと一緒に行けばよかったなぁって思う」
何も言えなかった。
俺はただ黙って、彼女の話を聞いていた。
「久世くんって、変だよね」
「……え?今の会話で変な要素ありました?」
「いや、だってさ、まだ若いのに、無理に励まそうとしないとこが大人だなぁって」
「……何を言えばいいかわからなかっただけです」
「そっか。でも……うん。それでいいんだ」
彼女は静かに言った。
「わからない時に、わかったふりされることの方が、しんどいものだから」
その言葉が、胸のどこかに落ちた。
俺は、この人のことをもっとちゃんと知りたいと思った。




