# 第十八話 老騎士バルト
# 第十八話 老騎士バルト
グリュンヴァルト公爵家の南翼の回廊の奥、私室から、最も遠い棟に、ひとりの老騎士の住まいがあった。
バルト・フォン・グラウシュタイン。
七十歳。前公爵ヴィルヘルム様の幼少期から、グリュンヴァルト家にお仕えしてきた、最古参の騎士。アルフレート様にとっては、親代わりとも呼べる存在。クラリスにとっては、優しい祖父のような人物。
私が公爵家に嫁いでから、私もまた、バルト卿に、何度も、教えを受けた。
「奥方様、グリュンヴァルト公爵家の家風は、騎士の規律と、領民の慈愛、その二つに支えられております」
バルト卿の、深く、低い声は、いつも、私を落ち着かせた。彼の左耳から首にかけての古傷は、二十五年前のドラコ侯爵領反乱の鎮圧戦で受けた傷。彼は、その戦で、王国を救った最大の功労者の一人だった。
ところが、その秋──。
王宮の枢密院に、奇妙な「告発」が、届いた。
「グリュンヴァルト公爵家家臣、バルト・フォン・グラウシュタイン卿。二十五年前のドラコ侯爵領反乱鎮圧戦において、我が軍の作戦情報を、敵側に漏洩した疑いあり。王立記録庫の文書に、彼の関与を示す書状が、近年、発見された」
私が、その告発の存在を知ったのは、ヴェルナー卿経由だった。
「シャルロット様、これは、極めて悪質な告発でございます。──告発の出処を辿ると、アーデンフェルト侯爵家の、お継母様、レーゲンシア様の、ご実家キール家の文書庫から、出てきた書状、とのことでございます」
私は、ヴェルナー卿の言葉を聞きながら、息を呑んだ。
──姉と継母。
姉と継母は、王立学院の試験汚職の件で追い詰められた今、最後の反撃として、私の周辺を、次々と攻撃しようとしている。最初の標的が、グリュンヴァルト公爵家の最古参の騎士、バルト卿。
姉と継母の狙いは、明らかだ。
バルト卿に、二十五年前の反逆の罪を着せ、彼を断罪することで、グリュンヴァルト公爵家の名誉に、深い傷をつける。そうすれば、私──シャルロット公爵夫人の、王宮での地位も、揺らぐ。
私は、心の中で、深く頷いた。
──前世で、姉が、まさに同じ手段で、バルト卿を、嵌めたのだ。
前世のバルト卿は、姉と継母の謀略で、二十五年前の反逆の罪を、不当に着せられた。彼は、自らの名誉を守るため、自害に等しい形で、命を絶った。私は、当時、嫁いだばかりで、その訃報を、風の便りで耳にしただけだった。
──今度は、違う。
私は、すぐに、動いた。
アルフレート様、ヴィルヘルム公爵、ヴェルナー卿、それから、母の旧家令クルツを、応接間に集めた。
「皆さん、バルト卿への告発の出処は、明らかに、姉と継母の謀略でございます。私は、バルト卿の二十五年前の戦功記録を、王立記録庫から、すべて取り寄せて、整理し、王宮に正式に、再提出したいと存じます」
「シャル、それは、容易ではない」
ヴィルヘルム公爵が、深く息を吐いた。
「二十五年前のドラコ侯爵領反乱は、王立記録庫の中でも、最も封印された記録の一つだ。アクセスには、王陛下御自らのお許しが、必要だ」
「お父様」
アルフレート様が、頷いた。
「父上から、王陛下に、ご奏上いただけませんか。グリュンヴァルト公爵家の最古参の騎士の名誉に関わる、極めて重要な事案でございます」
「アルフレート、シャル、よかろう」
ヴィルヘルム公爵は、深く頷いた。
「明日、王宮へ参じる」
その三日後、王陛下御自らのお許しを得て、私とアルフレート様、ヴェルナー卿は、王立記録庫に、入った。
王立記録庫は、王宮の地下三階。永久保存の貴族の戦功記録、契約書、判決文、それから、王国の歴史の核心に関わる文書が、整然と納められた、巨大な書庫だった。
「ヴェルナー卿」
「はい、シャルロット様」
「ドラコ侯爵領反乱鎮圧戦の記録。当時の作戦書、戦地の通信記録、そして、戦後の論功行賞の記録──すべて、ご手配ください」
「畏まりました」
私たちは、丸三日、その書庫に、籠もった。
そして、明らかになったのは、こうだった。
二十五年前のドラコ侯爵領反乱鎮圧戦において、バルト・フォン・グラウシュタイン卿は、騎兵中隊の隊長として、奇襲作戦の指揮を、執った。彼の作戦は、見事に成功し、敵総司令官の本陣を、夜襲で粉砕した。戦後の論功行賞では、彼は、王陛下御自らの紫薔薇章を授与され、「我が王国の鉄の柱」と称えられた。
そして──。
「奇襲作戦の情報を、敵側に漏洩した」という告発の根拠となった書状は、明らかな、後年の偽造であった。
書状の紙質は、二十五年前の王立公文書用紙ではなく、最近、二、三年内のもの。インクの組成も、最近の市販品。しかも、書状の文体は、二十五年前のバルト卿の他の書状と、明らかに、異なっていた。
「これは、後世の偽造でございます」
ヴェルナー卿が、深く頷いた。
「告発の核心となった証拠は、瞬時に、覆ります」
私は、頷いた。
──姉と継母は、雑な仕事を、してくれた。
姉と継母の動きは、明らかに、急いでいた。私の周辺を、一気に、潰そうとしていた。けれど、その急ぎが、彼女たちの謀略の質を、低下させていた。
王宮では、即座に、再審が、開かれた。
私は、王陛下御自らの臨席のもと、バルト卿への告発の偽造を、ヴェルナー卿の調査結果と、王立記録庫の正式な戦功記録をもって、立証した。
王陛下は、深く、頷かれた。
「バルト・フォン・グラウシュタイン卿への告発は、明確な、悪意ある偽造である。──告発の出処、アーデンフェルト侯爵家のレーゲンシア・キール夫人と、その関係者を、即時、内偵せよ」
宰相閣下が、深く礼をした。
「畏まりました、陛下」
そして、その夜。
グリュンヴァルト公爵邸の応接間で、私は、バルト卿に、すべての結果を、ご報告した。
「バルト卿、ご名誉は、完全に、回復いたしました」
老騎士は、深く、頭を下げた。
「奥方様……」
そして、彼は、突然、片膝を、ついた。
「奥方様。私は、本日、改めて、誓いを立てさせていただきます。──私の最後の剣は、奥方様、シャルロット公爵夫人を、お守りするために、捧げます」
「バルト卿、それは、私には、過ぎたお言葉でございます」
「いいえ、奥方様」
老騎士は、深く頷いた。
「私は、二十五年前、王国の鉄の柱として、戦場に立ちました。けれど、本日、奥方様の機転で、名誉を取り戻すことができました。私の残りの命は、奥方様の盾となって、捧げさせていただきます」
私は、深く、礼をした。
「バルト卿、ありがとうございます」
その夜、グリュンヴァルト公爵邸では、深い、温かい空気が、流れていた。
クラリスが、私の隣で、嬉しそうに、頬を紅潮させていた。
「お義姉様、本当に、すごいわ。バルト卿の名誉を、お助けくださって」
「クラリス、私こそ、バルト卿に、たくさん、教えていただいたから」
「お義姉様、私、もう少し大きくなったら、お義姉様のような、賢い女性になりたい」
「あなたは、もう、十分賢いわ、クラリス」
私は、彼女の頬に、そっと、口づけを、落とした。
──そして、その夜、私の私室で。
アルフレート様が、私の傍らで、私の手を、両手で握った。
「シャル」
「はい」
「君が、姉君と継母君を、一気に、追い詰めることに、なるな」
「はい」
私は、頷いた。
「もう、最後の戦いの、準備が、整いました。──次の動きは、おそらく、姉と継母の、最後の凶行になります」
「私は、君を、絶対に、守る」
アルフレート様は、私の頬に、そっと触れた。
「シャル、君を、二度と、失いたくない」
「アルフレート様」
私は、目を閉じた。
──そして、その夜。
私は、彼の胸の中で、しばらく、目を閉じていた。
夜風が、窓の外で、低く、鳴っていた。
最後の戦いが、もう、すぐ、そこに、迫っていた。




