第十六話 婚約式
雪解けが終わり、王都の街路樹に若葉が芽吹く頃、グリュンヴァルト公爵家から、正式な書状が届いた。
「アーデンフェルト侯爵閣下
我が嫡男アルフレートと、貴侯爵家ご令嬢シャルロット様との婚約を、両家の正式な合意を以て、王宮に届け出たく存じます。婚約式を、来月の二十日、グリュンヴァルト公爵邸の薔薇園にて、執り行いたく。
──グリュンヴァルト公爵 ヴィルヘルム」
父は、書状を読み終えると、深く頷いた。
「シャル、いよいよだな」
「はい、お父様」
私は、書状を父の手から受け取り、深く礼をした。
「ありがとうございます」
その夜、私は私室で、母の遺品の引き出しから、一つの装飾品を取り出した。
母エレオノーラが、生前、私のために、こっそりと特別に作らせていた、銀の髪飾り。月光のような銀の細い枝が絡み合い、その先に、小さな水色の宝石が一粒。母は、これを、私が結婚するときに身に着けてほしいと願って、箱に納めて、私の名前を書いた紙をつけていた。
──お母様。
私は、髪飾りを、両手で胸に押し当てた。
私は、お母様の選んでくださった髪飾りで、婚約式に臨みたいと存じます。
その日から、婚約式までの一ヶ月、グリュンヴァルト公爵家とアーデンフェルト侯爵家の使者が、何度も行き来した。婚約衣装の合わせ、薔薇園の装飾の打ち合わせ、王宮への届け出書類の作成、招待客の整理。
そして、その合間に、奇妙な現象が、私の周りで起き始めた。
──母の旧臣たちが、一人、また一人と、私の前に現れたのだ。
「シャルロット様」
ある日、私の私室を訪れた、初老の男性。
「私はクルツと申します。先代奥様の、家令を務めておりました。奥様のご逝去の後、王都郊外で、農地の管理人をしておりました」
「クルツ……」
私は、その名前を聞いて、思わず立ち上がった。
クルツは、母の人脈を、彼の頭の中に、すべて記憶している男だった。商家、薬師、騎士、文官、農民──母エレオノーラが、領地と王都の各地に築いた人脈を、クルツは、すべて、生き字引のように覚えていた。私が今回、北部辺境の商家に手紙を書けたのも、アンナ経由でクルツに連絡を取ったからだった。
「シャルロット様、私、ご結婚に際し、改めて、お役に立たせていただきたく、参上いたしました」
クルツは、白髪を低く下げて、深く礼をした。
「クルツ、ありがとう」
私は、彼の手を取った。
その翌日には、母付きの古参の侍女、ベアトリス。続いて、母の専属仕立て師、ロザンナ。そして、母の馬丁の長、ハインツ。
母エレオノーラが亡くなった時に、継母レーゲンシアによって屋敷を辞めさせられた人々が、次々と、私のもとに、訪ねてきた。
「お嬢様、私たちは、ずっと、お嬢様のお戻りを、お待ちしておりました」
ベアトリスが、涙ながらに言った。
「私たちは、皆、エレオノーラ奥様にお仕えしたことを、生涯の誇りとしております。お嬢様が、奥様の血を引いて、これほどまでにご立派になられた今、私たちの残りの人生も、お嬢様のお傍で、お役に立たせていただけないでしょうか」
私は、深く頷いた。
「ベアトリス。皆さん。私が公爵夫人になれば、私には、新しい家がございます。グリュンヴァルト公爵家の使用人として、皆さんを迎え入れさせていただけるよう、私は、必ず、アルフレート様にお願いいたします」
そして、その願いは、すぐに叶った。
アルフレート様は、私の話を聞くと、即座に頷かれた。
「あなたの母御に仕えた方々であれば、私の家に、その力をお借りすることに、何の異論もない」
「アルフレート様……」
「シャル」
彼は、私の手を取った。
「あなたの過去も、母御の遺産も、そのすべてが、あなた自身を、形作っている。それを尊重することが、私の役目だ」
私は、目に滲んだ涙を拭った。
──お母様。
私は、心の中で呼びかけた。
お母様の人々を、私は、グリュンヴァルト公爵家へ、お連れすることができそうです。
お母様は、もう、ひとりではございません。
そして、私も、ひとりではございません。
婚約式の前日の夜。
グリュンヴァルト公爵家の薔薇園では、すでに装飾の準備が整っていた。蔓薔薇の柱、銀の燭台、薔薇の花弁を撒いた小道。
私は、アルフレート様と二人だけで、薔薇園を歩いた。
「シャル」
「はい」
「ひとつ、聞いてもよろしいか」
「どうぞ」
「あなたが、ベリヴァルト戦役の前夜に、私に話してくださった夢の話を、私は、今でも、時々、思い出すのです」
私の指先が、小さく震えた。
「あの夢は、本当に、夢だったのですか?」
私は、しばらく、薔薇の蕾を見つめた。
風が吹いて、わずかに揺れた花弁が、私の頬を撫でた。
「アルフレート様」
「はい」
「あなた様には、いつか、必ず、すべてを、お話しいたします」
私は、ゆっくりと、彼の瞳を見上げた。
「ただ、今は、私の中に、まだ、整理ができていない感情が、たくさんございます。──申し訳ございません」
「シャル」
「はい」
「待ちます」
アルフレート様は、私の手を、そっと両手で包んだ。
「私は、いつまでも、待ちます。あなたが、ご自分の言葉で、ご自分のすべてを、私にお話しくださる、その日まで」
私は、彼の手を、握り返した。
「ありがとうございます」
そして、翌日。
婚約式の朝、薔薇園には、朝霧が薄く漂っていた。
私は、母の銀の髪飾りを身に着け、純白に近い、淡い水色のドレスを纏って、アルフレート様の前に立った。
王都の大司教が、両家の名のもとに、私たちの婚約を、神の前で誓わせた。アルフレート様が、私の左手の薬指に、銀の指輪を嵌めた。指輪には、グリュンヴァルト公爵家の紋章と、アーデンフェルト侯爵家の紋章の、両方が、繊細に刻まれていた。
「シャルロット・フォン・アーデンフェルト」
アルフレート様の声が、薔薇園に響いた。
「私は、あなたを、生涯の伴侶として、迎えることを、誓います」
私は、頷いた。
「アルフレート・フォン・グリュンヴァルト。私は、あなた様を、生涯の伴侶として、お仕えすることを、誓います」
参列者の拍手が、薔薇園を満たした。
両家の主人たちは、喜びに包まれていた。父アーデンフェルト侯爵の隣で、継母レーゲンシアが、不自然な笑顔を貼り付けていた。義姉イザベラは──招待されていたが、結局、出席しなかった。「体調がすぐれない」という、エミール経由の連絡だった。
エミール本人は、参列していた。彼は、末席で、ひっそりと立って、私とアルフレート様を見つめていた。その視線は、一度も揺れなかった。けれど、彼は、誰にも気づかれないように、私に向かって、ほんの少しだけ、頷いた。
──エミール。
私は、心の中で、彼に呼びかけた。
あなたに、未練はない。
けれど、義姉の始末に、あなたを巻き込みすぎるつもりもない。それだけの話です。
婚約式が終わり、参列者たちが薔薇の花弁を私たちに撒いた。クラリスが私のドレスの裾に、何度も抱きついた。公爵夫人が、私を抱きしめて、「シャル、これからは、あなたも、私の娘よ」と囁いた。
その夜、グリュンヴァルト公爵邸の応接間で、母の旧臣たちが、私を取り囲んだ。
クルツ、ベアトリス、ロザンナ、ハインツ、アンナ、ヘルガ、マリエッタ、それから、ヤン・エルバッハ。
私は、皆の前で、深く頭を下げた。
「皆さん」
「お嬢様」
「私は、皆さんと共に、これから、新しい家を、築いていきたいと存じます。そして、いずれ、お母様の真実を──」
私は、声を、ほんの少し、低くした。
「すべて、明らかにしたいと、思っております」
クルツが、深く頷いた。
「お嬢様、私たち全員、お力になります」
ベアトリスは、瞳を潤ませたまま、何度も頷いている。
ヤンは片膝をつき、腰の剣に手を添えた。
「私の剣は、シャルロット様の剣でございます」
──私の周りに、味方が、これほど集まっていた。
そして、私の戦いは、まだ、半ばだった。
母の真実、義姉の野望、継母の罪。そのすべてを、解き明かす準備が、ようやく、整いつつあった。
その夜、私は、馬車の中で、母の銀の髪飾りを、そっと指で撫でた。
「お母様」
「もう少しです。もう少しで、私は、お母様を、本当の意味で、解き放ちます」




