第5話【王太子は推しを切ったのか?】
【ユリアナ視点】
「……殿下」
あの時、殿下が出ていって、扉が閉まった。
静かだったけれども、今までよりも冷たかった。
足音は遠ざかっていく。
わたくしは追いかけることもせずに、応接室で立ったまま。
遠ざかっていくと、応接室には静寂が訪れる。
聞こえるとすれば廊下を歩く侍女の足音くらいだろう。
「本当なのね」
机の上に置かれた婚約破棄の書類を見てみる。
はっきりと、レオポルド殿下とわたくし”ユリアナ・フォン・ルイッツホーフ”が婚約を解消する旨を書かれている。
殿下の署名もあるし、王家の印もあってこれが正式書類だって分かる。
偽造なんてありえないくらいに。
「本当に、終わったのね」
わたくしは殿下との婚約を破棄された。
その事実は、時間が経つにつれてはっきりとわたくしにのしかかる。
殿下の、『君のため』という言葉が、胸に刺さる。わたくしのため? それなら、なぜ理由を言わないの? わたくしは……ただ、選ばれたかっただけなのに。
わたくしは無意識に指先で、書類の端を軽く折った。
「どうしてなの?」
何が原因だったのかしら。
思い出そうとしても、心当たりがない。
いつから殿下は、わたくしとの婚約を破棄しようとしたのか。
そのきっかけって何だったの。
わたくしはその際に、何をしてしまったのか。
思考を巡らせながらその心当たりを探っていく。
でも、見当たらない。
何がいけなかったのだろうか。
気づかないうちにわたくしは殿下へ、粗相をしていたのか。
わたくしすらも知らない癖的な言動が、殿下を失望させてしまったのか。
もしかしたら、その時にわたくしが謝って態度を変えれば、婚約破棄にならなかったのだろうか。
考えれば考えるほど、問いだけが増えていく。
けれど、答えに繋がるものは一つも見つからなかった。
「分かりませんわ」
思い出してみるけれども、失言はしていないはず。
言動には気をつけていたはず。癖で出ていたであろうものも含めて。
婚約者として、殿下を支えていたはず。職務的なのも積極的に行っていた。
なのに、どうして。
”王太子なのに”とか、”王太子失格ですわ”といった事を言って、殿下を否定した覚えがない。
「……何も思い当たらない」
だから、さっき殿下が言っていた事を思い出す。
『君のためだ』、『受け止めきれなかった』。
抽象的な事だけをわたくしに伝えた。
はっきりといつわたくしが何をしたのか、それは言ってすらいなかった。
役に立っていなかった事はなかった。
それは殿下も言っていた。
「わたくしのために、殿下は婚約を破棄したの?」
どんな利益があるのかしら。
婚約破棄する事で、わたくしにどんな利益が。
分からない。
息が少し浅くなって、呼吸する回数が増える。
わたくしは殿下を愛していた。
他の王族や令息と結ばれることなんて考えていなかった。
結ばれたとしても、完全に好きになることなんて考えられない。
だから、わたくしは”正しい王妃”になるために、努力をしていたんだけれども。
「無駄だったのかしら」
『受け止めきれなかった』って言われた。
わたくしは、間違っていたの?
方向性を誤ったのかしら。
でも、間違っていないはず。
努力を怠った婚約者は、破棄されるのは当然だから。
そうならないようにしてきた。
なのに殿下は受け止めきれなかった。
何を受け止めきれなかったのかしら。
それこそが、”理由”のはず。
でも殿下はそれを言わなかった。
『君のためだ』、『受け止めきれなかった』、それしか言わなかった。
わたくしはそれを心の中で何回も繰り返す。
気がついたら、乾いた小さな笑いが出てくる。
「”理由”になっていないわね」
言って欲しかった。
それなら納得出来たのに。
でも、もう無理ね。
「……っ!」
下を向きながら、軽く笑みをすると、胸の奥が少しだけ痛んだ。
辛い気持ちがやっとやってきた。
さっきは現実がのしかかってきただけ。
今は心の中でも婚約破棄が襲いかかってきている。
あっという間にわたくしは負けてしまった。
殿下、どうしてわたくしから離れたの。
わたくし、変えてほしい部分があったら、変わりますから。
望む婚約者や、王妃になります。
殿下のことを愛していますから。
だからお願い……。
でも、わたくしは虚しく心の中で伝えるだけ。
届くことはない。
「おほほ……」
軽く笑って心を落ち着かせる。
でも、わたくしに落ち度があったのよね。
だから殿下はわたくしから離れた。
わたくしが悪いのよね。
殿下は何も悪くない。
そう、殿下の中ではっきりとした理由があって、婚約破棄をした。
だから。
ああ、そう思えてくるなんて。
そう思おうとしている自分に、気づきながら。
「わたくしは、まだ理解しようとしている」
だから教えてほしい。
言って貰えたら、納得するから。
殿下の口から直接。
そうじゃないとわたくしは。
「理由を知らないままでは、何も受け取れないわ」
後に知ることになる殿下の前世の話。本当なら、わたくしをそんなに想っていたのに、どうして捨てたの?
信じたくない。
でも、心のどこかで信じたい自分がいた。
*
「本当、あれで解消なんだな」
婚約破棄をして、時間が経った。
夜になり、部屋に戻っても、気持ちは晴れない。
ユリアナ嬢の姿が頭の中に残っている。
終わったはずなのに、どうしてこんなに。
むしろ失ったものが大きすぎる気がする。
してはいけないことをしたかのような。
ああ、そうかもしれない。
ずっと一緒にいてくれて、何度も何度も俺的に推していた彼女との婚約を解消した、のは……?
何かおかしい。
推していた?
そんな言葉、俺は使わないはずだ。
誰の記憶だ、これは。
ーー気持ち悪い。
言葉が変だ。
どういうことだ。
「あれ?」
頭の中でノイズが起こる。
そして頭痛。
「痛い」
これまでとは違った痛み。
それと共に、今まで体験したことのない記憶が思い出されていく。
洪水のように未経験のはずである記憶が押し寄せてくる。
高校生としてごく普通の日常を。
教室で授業を受け、友人と笑い、スマホでゲームを起動する。
画面の中には、ヒロインのクレア嬢と悪役令嬢のユリアナ。そして、レオポルド。
俺は、ユリアナのイラストを何枚を描いていた。
ーーそして、唐突に終わる。
どういうことだ。
今までの人生とは違っている。
「俺は、転生……したのか?」
それしかあり得ない。
鏡を見てみる。
そこには、ゲームで攻略対象であった王太子レオポルド。
俺はレオポルドに転生したということか。
「信じられない」
だがはっきりと、前世は終わっている。
これまでの王太子としての記憶もあるが、前世の記憶までも思い出されたので混線している。
とはいえ混乱することはなく、徐々に落ち着いていく。
「まさかこのタイミングで思い出されるなんて」
ユリアナが好きだった。悪役令嬢であるが。
王太子としてもそうだったが、かつての俺としてもユリアナが推しだった。
イラストも描くくらいだから。
ただ好きだったんじゃない。
あの時、手に取れなかった自分がーーずっと引っかかっていた。
「どうしてこのタイミングなんだよ!」
それなのに、俺はユリアナの婚約を破棄した。
ゲームと同じように。
「何で、もうちょっと早く思い出せなかったんだ」
思い出す。
あの日、庭園で紅茶を飲んでいた時のことだ。
ユリアナはいつも通り、背筋を伸ばして座っていた。
完璧な令嬢。隙の無い振る舞い。
けれど、カップを持つ手だけが、ほんの少し震えていた。
思い出す。
婚約破棄を告げたあの瞬間。
ユリアナは、何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけーー目を伏せた。
それだけだった。
怒りも、涙も、なかった。
……だからこそ、分からなかった。
(俺は、何を壊したんだ)
「あの、殿下」
彼女は何かを言いかけて、やめた。
そのまま、何も言わずに微笑んだ。
ーーあの時、俺は気づかなかった。
彼女が何を言おうとしていたのか。
どうして震えていたのか。
今なら分かる。
あれはーー縋る寸前だったんだ。
前世の記憶があったら、別の選択肢もあったのではないか。
違うやり方だって考えられたのかもしれない。
土下座をしてでも、関係を戻したはず。
それなのに、俺は王太子として受け止められなかったからという理由で、婚約を破棄した。
愚かすぎる。
記憶があれば成功したはずなのに、俺は手放した。
「しかも”君のため”って……何が君のためだよ」
さっきまで俺は、勝手すぎるって。
説明をはっきりとしていないし。
役に立てなかったか? そんな事は無い。
彼女は力になっていたよ。
十分すぎるくらいに。
「ユリアナ……」
確かに俺は弱かった。
迷っちゃいけないのに迷って、ユリアナにきつく言われて、婚約を破棄させるくらいだから。
冷たすぎるって。
確かに部活でも怖い顧問の下で動いていたら、帰宅部になりたくなる。
すぐキレる教師の授業だったら、学校を休みたくなるし、サボりたくなる。
それに比べたら、ユリアナって優しい方だよな。
なのに……
しかも、『いや、何も』って言うのって。
こっちの落ち度100%だろ。
「どうしよう……これ、謝った方が良いか?」
恥をかくかもしれないか、もうそれしかないよな。
謝って、ユリアナ嬢に許してもらって、婚約破棄を無かったことにしたい。
明日、ルイッツホーフ家へ行こうか。
土下座して謝ろう。
それしかない。
とにかく、頭を下げるしかない。それしか思いつかなかった。
今の俺は王太子だから。
許してもらえる可能性が高い。
そう決めて、俺は眠りについた。
ああ、眠ったら前世に戻っていないかな。
それか、朝に戻っているか。
当然そんな事は無いけれど。
もちろん、婚約破棄をした後だった。
そして俺は、ユリアナ嬢に土下座をして大惨敗をしたのだった。
「次もルイッツホーフ家の屋敷で土下座をするか、王宮で土下座をすべきか……」
でも俺は、二回目の土下座を考えていた。
ユリアナ嬢に許してもらうため。




