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第9話「流れる月日、不穏な影」

――前話末尾――

しばらくその場に立っていた琉成は、もう一度、夜空を見上げた。

「……与一殿、か」

小さく呟く。

月は変わらず、中庭を静かに照らしていた。

それから半月ほどが過ぎた。


杉田館には、以前と変わらぬ穏やかな日々が流れていた。


主屋の居室に続く次の間では、謙造と与一が向かい合って座っていた。開け放たれた襖の向こうからは、庭を渡る風に木々の葉が揺れる音が聞こえてくる。


「ところで、琉成殿の様子はどうだ?」


謙造が尋ねると、与一は膝の上に手を置いたまま答えた。


「こちらへ来られて半月が経つ故、随分とこの館にも馴染んでおられる」


「そうか。それは何よりだ」


謙造は満足そうに頷いた。


「小さい頃より書物を好まれておったようで、近頃は書院に籠りっぱなしだ」


「お主と似ておるではないか。畑仕事は重信に押し付けて、本ばかり読んでおった」


謙造が懐かしむように笑うと、与一も目を細めた。


「重信は単純なやつ故、『お前の分も私が読むから、お前もその分働け』と言ったら、納得しておったぞ」


「あやつは字を読むのが嫌いだからな」


「うむ」


二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。


かつての何気ないやり取りを思い出したのか、しばらくの間、次の間には和やかな空気が漂っていた。


その頃、書院では琉成が机に向かい、一冊の書物を読み進めていた。傍らには烈が座っていたが、手元に書物はない。ただ、黙って琉成の様子を眺めている。


やがて、琉成が本から顔を上げた。


「烈も何か読みますか?」


「いえ……私は書物が苦手なもので……。銀丸ほどではありませんが……」


言いにくそうに答える烈に、琉成は小さく笑った。


「銀丸は書院へ行くと言ったら、すぐに逃げてしまいますね」


そう言って、再び書物へ目を落とす。


烈は苦笑しながら、肩をすくめた。


「この館内が平穏だからと気を抜いてるんですよ。若様からも叱ってやって下さいよ」


「銀丸は警固衆へ入る事になりそうです。暇があれば弥月殿に手合わせを願い出ているようですよ。今も稽古場に居るのでしょう」


「無礼者だとあれほど文句を言っていたのに……」


烈が呆れたように呟くと、琉成は本から顔を上げることなく、口元に微かな笑みを浮かべた。


しばらくして、書院の外から足音が近づいてきた。


「琉成殿、殿がお呼びです」


襖の向こうから家臣の声が響く。


琉成は読んでいた書物に栞を挟み、静かに閉じた。


「分かりました」


立ち上がる琉成に続き、烈も腰を上げる。二人は机の上を整えてから、書院を後にした。


一方、稽古場では弥月が木刀を手に、足早に歩いていた。その後ろを銀丸が追いかけてくる。


「もう一本頼む!」


「しつこいぞ! そう何度も手合わせ出来るか!」


「頼む!」


「お前にばかり構ってはおれん!」


弥月は足を止めて振り返ると、迷惑そうに銀丸を睨みつけた。


「うっ……」


気圧されたように銀丸が足を止める。弥月はそれ以上相手にすることなく、木刀を手に稽古場を出ていった。


取り残された銀丸は、遠ざかる背中をしばらく見送っていたが、やがて諦めたように辺りを見回した。


少し離れたところで、宗馬が一人、木刀を振っている。その姿を見つけるなり、銀丸は足早に近づいていった。


「手合わせを願いたい」


宗馬は木刀を振る手を止め、銀丸へ目を向けた。


「またですか……。打ち合いばかりでなく、素振りをして下さいよ」


呆れたように言い残し、宗馬は再び木刀を振り始める。


銀丸はその場に立ったまま、しばらく宗馬を見つめていた。やがて、諦めたように木刀を構えると、渋々と素振りを始める。


再び稽古場には、木刀が空を切る音が響き始めた。


その頃、次の間では謙造と与一が再び向かい合っていた。


襖の外から足音が近づき、家臣の声がする。


「殿、琉成殿がお見えになりました」


「入れ」


家臣が襖を開けると、琉成が一礼して部屋へ入った。烈もその後に続き、少し離れたところに控える。


「呼び立ててすまぬな。読書に励んでおっただろうに」


謙造が声をかけると、琉成は静かに頭を下げた。


「滅相もございません。殿からのお呼びとあらば、いかなる時でも参上いたします」


謙造は頷き、傍らの家臣へ目を向けた。家臣はその意を察し、一礼して部屋を出ていく。


人払いが済むと、謙造は琉成へ向き直った。先ほどまでの和やかな表情は消え、面持ちが引き締まる。


「先程、矢上殿より書状が届いた」


「父上から……ですか」


琉成の表情がわずかに曇った。


「うむ」


謙造は一拍置いてから、書状の内容を告げた。


「婚儀前に、沙耶を矢上家へ招きたいとの事じゃ」


「そうですか……」


琉成は静かに答えた。その目が、わずかに伏せられる。


与一はそんな琉成の様子を見ながら、慎重に問いかけた。


「まだ返事はしておらぬが……其方はこの件、知っておったか?」


「いえ、存じておりません」


琉成は首を横に振った。


「父上のお考えは、私にも分かりかねます。私は、既に杉田家へ身を預けております。殿がお決めになられた事に従います」


その言葉を受け、謙造はしばらく琉成を見つめていた。やがて、静かに頷く。


「うむ。では、戻られよ」


「承知致しました」


琉成と烈は二人に一礼すると、部屋を出ていった。襖が閉じられると、次の間には再び静けさが戻った。


謙造は、琉成が去った襖へしばらく目を向けていた。


「琉成殿は、誠に何も知らされておらぬようだ」


「そうだな……」


与一は腕を組み、考え込むように視線を落とした。


「姫を見定めたい……というのが本心か……。あるいは……」


そこで言葉を切り、与一は謙造へ目を向けた。謙造もまた、与一の目を見返す。


「婚儀の日取りも決まりつつあるというのに、今更何をすると言うのだ」


「琉成殿は誠に良きお方だが、矢上殿は腹の内が読めん故、慎重に判断せねば」


「しかし、拒めばこちらが信用していないと申しておるようではないか」


「それは、そうだが……」


二人はそれきり口を閉ざした。


穏やかだった館に届いた、矢上家からの一通の書状。


その意図を測りかねたまま、謙造と与一はそれぞれに思案を巡らせていた。

――次話冒頭――

杉田館、沙耶の居室。

張り詰めた空気の中、弥月の声が大きく響いた。

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