第8話「月明かりの下、触れ合う心」
――前話末尾――
町の通りには、変わらず人々の声と足音が満ちていた。
静まり返った夜の道場に、鋭い風切り音が響いていた。
窓から差し込む月明かりが、磨かれた床の上に細長い光の帯を落としている。屋敷の者たちはすでに寝静まり、時折、遠くの廊下から夜番の足音が聞こえてくるばかりだった。
その静けさの中、弥月は一人、木刀を振っていた。
一振りごとに木刀が空を裂く。足を運び、身を返し、間を置かずに振り下ろす。何度繰り返しても、その動きに乱れはなかった。
大きく振りかぶることも、力任せに振るうこともない。無駄を削ぎ落とした動きの一つひとつに、長年の鍛錬が表れていた。
やがて、道場の入り口に人影が現れた。
銀丸だった。
銀丸はすぐには声をかけず、入り口に立ったまま、弥月の稽古を眺めていた。やがて壁に立てかけられた木刀に気づくと、それを手に取り、弥月の方へ歩み寄った。
「相手になろう」
弥月は振り向きもせず、木刀を振り下ろした。
「結構だ」
取りつく島もない返事だったが、銀丸は気にした様子もなく、木刀を構えた。
「遠慮するな」
弥月はようやく手を止め、木刀を下ろした。眉を寄せ、銀丸へ冷ややかな視線を向ける。
「結構だと言った」
「そう言うな」
銀丸は笑みを浮かべたかと思うと、返事を待たずに踏み込んだ。
木刀が弥月の肩口へ振り下ろされる。
弥月は半歩だけ身を引いた。木刀が衣の袖をかすめ、空を切る。間髪を入れず、銀丸はさらに踏み込み、続けざまに打ち込んだ。
弥月は木刀を斜めに合わせ、相手の勢いを横へ流す。銀丸の身体がわずかに泳いだものの、すぐさま体勢を立て直した。
「ほう……!」
感心したような声を漏らしながら、銀丸は再び木刀を振るった。
一撃目を受け、二撃目を流し、三撃目をかわす。弥月は無駄な動きを避けながら、銀丸の攻めを捌いていく。
だが、銀丸も簡単には引かなかった。
「まだだ!」
大きく踏み込んだ銀丸が、さらに木刀を振り下ろす。力任せに見えるその一撃には、確かな重みがあった。打ち合うたびに鈍い音が道場に響き、弥月の足袋が床をわずかに滑る。
次の一撃を受けた瞬間、弥月の腕にずしりとした衝撃が伝わった。
正面から受け続ければ、いずれ押し切られる。
弥月は相手の力を受け止めるのではなく、木刀を滑らせて刃筋を外へ逸らした。
銀丸の身体が前へ流れ、脇が開く。
その隙を見逃さず、弥月が一歩踏み込んだ。
木刀の切っ先が、銀丸の喉元でぴたりと止まる。
銀丸の動きが止まった。
先ほどまで響いていた木刀の音が途絶え、道場に再び静けさが戻る。
弥月は木刀を構えたまま、銀丸を見据えていた。
「……どういうつもりだ」
やがて銀丸は、ゆっくりと木刀を下ろした。
「腕試しだ。相当な腕前だと聞いてな」
「……随分と不躾な奴だな」
「……すまん」
銀丸は素直に頭を下げた。
弥月はしばらくその姿を見つめていたが、やがて木刀を下ろした。
「その程度では、私を倒せんぞ」
銀丸は顔を上げ、弥月を見た。悔しがるでもなく、どこか納得したような表情を浮かべている。
しばらく二人の間に沈黙が流れたあと、銀丸が口を開いた。
「……また、手合わせを頼めるか?」
弥月は手にした木刀を軽く下げ、銀丸を一瞥した。
「……気が向けばな」
それだけ告げると、弥月は木刀を元の場所へ戻し、道場を後にした。
銀丸はその背中を見送り、手にした木刀へ目を落とした。やがて小さく息を吐くと、こちらも木刀を壁に立てかけた。
夜の静けさが、再び道場を包んだ。
*
道場を出た弥月は、見回りのため屋敷内を歩いていた。
庭道を進み、中庭へ差しかかったところで、月明かりの下に立つ人影が目に入った。
琉成だった。
庭の端に一人佇み、夜空を見上げている。何かを考え込んでいるようにも見えたが、弥月は一瞥しただけで、そのまま通り過ぎようとした。
「弥月殿!」
足音に気づいた琉成が振り返り、声をかける。
弥月は足を止めた。琉成は足早に近づき、その前で立ち止まった。
しばらく、二人の間に沈黙が流れる。
「こんな夜更けまで、何をされていたのですか?」
琉成が尋ねると、弥月は淡々と答えた。
「道場だ。邪魔が入った故、切り上げた」
「邪魔……?」
琉成が首を傾げる。
「其方の友人とやらだ。馬鹿力の」
その言葉に、琉成は思わず笑い声を漏らした。
「銀丸ですね。今後は無礼を働かぬよう、言い聞かせておきます」
「必要ない。あいつは修練が必要だ」
琉成は少し意外そうに弥月を見つめた。
「なんだ?」
「いえ」
琉成はそれ以上尋ねず、再び中庭へと目を向けた。月明かりに照らされた庭には、風に揺れる木々の影が静かに落ちている。
「この地は、穏やかな方が多いですね」
「……ああ」
弥月が短く答えると、琉成の視線は庭の向こうにある主殿へと移った。
「この屋敷で働く方たちも皆、生き生きとしていて……。私がいた館の女中たちは、皆、顔色ばかり伺っていました」
そこで言葉を切り、琉成はわずかに目を伏せた。
「私たちが、そうさせていたのでしょう」
弥月はすぐには答えなかった。
やがて中庭の端にある大きな石へ歩み寄ると、腰を下ろした。琉成もその傍らに立ったまま、言葉を待つ。
「矢上家は武力にばかり目を向けて、民の声など聞かぬからではないか」
弥月の言葉に、琉成は静かに彼女を見つめた。
「父上は、武をもって国を守るべきだと考えておられます」
声には、父を否定することへのためらいがわずかに滲んでいた。
「ですが、私は……武力ではなく、対話で他国との友好を築くべきだと考えていました」
弥月は顔を上げ、琉成へ目を向けた。
「ほう。父親の思想とは反するな」
「そうですね」
琉成は苦笑した。
「父上は……戯言だと笑っておりました」
そう言うと、琉成はゆっくりと夜空を見上げた。月明かりがその横顔を照らしている。笑みはすでに消え、どこか寂しげな面持ちになっていた。
弥月は、ふと琉成の横顔に目を向けた。
膝の上に置いた手が、わずかに握られる。
やがて弥月は視線を落とし、静かに息をついた。
しばらくして、琉成が静かに口を開く。
「私とて、武力を持つこと自体が間違いだとは思いません。守るためには、力も必要でしょう」
弥月は正面を向いたまま、ひとつ頷いた。
「そうだな」
「ですが、武力で相手を従わせるのは間違っています。それでは民の不満も募るばかり……」
琉成の声が夜の庭に静かに響いた。
二人の間に、再び沈黙が落ちる。
弥月はすぐには答えず、琉成の言葉を受け止めるように、しばらくその場に留まっていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
「……その言葉が誠ならば、与一殿と話してみると良い」
「与一殿と……?」
琉成が問い返す。
「ああ」
弥月はそれ以上説明することなく、踵を返した。
琉成は呼び止めず、その背中を見送った。弥月の足音が廊下の向こうへ遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
しばらくその場に立っていた琉成は、もう一度、夜空を見上げた。
「……与一殿、か」
小さく呟く。
月は変わらず、中庭を静かに照らしていた。
――次話冒頭――
それから半月ほどが過ぎた。




