第7話「館下町見分、胸のざわめき」
――前話末尾――
琉成にとっても、杉田の地を知るための新たな一日が始まろうとしていた。
一方、沙耶の居室では、雅が小袖の裾を整えていた。いつもの小袖から、館下町を歩くための壺装束へと着替えを済ませ、最後の身支度を整えている。襖のそばには、すでに支度を終えた弥月が立っていた。
「市に行くのは久しぶりだね〜!」
雅は弾んだ声を上げ、裾の具合を確かめるようにくるりと回った。
「そうね」
沙耶も身支度を整えながら、柔らかく微笑む。
「そう頻繁に出られても困る」
弥月がいつもの調子で言うと、沙耶と雅は顔を見合わせ、くすりと笑った。
「沙耶、琉成様はどうなの?」
雅は手を動かしながら、何気ない様子で尋ねた。
「穏やかで、優しい方」
沙耶の口元に、ほんのりと笑みが浮かぶ。
「そっか。良かった〜。弥月みたいに仏頂面な方じゃなくて」
「何だと?」
弥月が睨みを利かせると、雅は悪びれる様子もなく笑った。
「まだ分からんぞ」
弥月は短く言い返したが、沙耶はその言葉を否定することなく、静かに続けた。
「琉成様は、誠に心根の良いお方だと思う」
その言葉に、雅の手がふと止まった。沙耶の顔をちらりと見たあと、今度は弥月へと視線を移す。
弥月は相変わらず、襖のそばで黙っていた。
「……そうか」
それだけ答えると、弥月はふいと視線を逸らした。
雅は二人を交互に見比べたものの、それ以上は何も言わず、再び身支度に取りかかった。
「出来た! 皆んなを待たせてるから、早く行こう!」
最後の確認を終えた雅が、ぱんと手を叩く。
「そうね、急ぎましょう」
沙耶も立ち上がり、三人は居室を出た。先頭を行く雅の足取りは軽く、その後ろを沙耶が続き、弥月は少し距離を置いて最後尾についた。
表門の外では、琉成たちがすでに待っていた。
三人が合流すると、一行は連れ立って館を出た。館下町へ続く道には朝の光が降り注ぎ、行き交う人々の姿も少しずつ増え始めている。
「何食べよっかな〜。ねぇ、何がいい?」
雅が歩きながら振り返ると、間髪を入れずに声が返ってきた。
「団子!」
銀丸が勢いよく答える。
「私も大好き〜!」
雅も嬉しそうに声を弾ませた。
「さっきから食い物の話ばっかりだな……」
烈が呆れたようにこぼすと、雅と銀丸は顔を見合わせ、声を立てて笑った。
その少し前では、沙耶と琉成が並んで歩いていた。
「館下町へは、よく行かれるのですか?」
「たまに。市のない日に行くことが多いです」
「良いですね。民たちの様子も分かりますし」
「はい」
穏やかな調子で言葉を交わす二人の背後から、雅の声が飛んできた。
「早く行こ〜!」
振り返ると、雅が銀丸と烈の腕をそれぞれ掴んでいた。
「お、おい!」
「引っ張るなって!」
二人の抗議も気に留めず、雅はそのまま先へと駆けていく。引きずられるようになった銀丸と烈の姿に、沙耶は思わず微笑んだ。
琉成もまた、三人の賑やかな様子を穏やかな表情で見つめていた。
その少し後ろを歩く弥月は、変わらぬ歩調で周囲に目を配っていた。道の脇に並ぶ家々、行き交う人々、そして先を行く仲間たち。視線を巡らせながら、一つひとつ確かめるように周囲の様子を見ている。
やがて一行は、賑わいを増していく館下町へと入った。
朝から多くの人が集まり、商人たちの威勢のいい呼び声や、通りを行き交う人々の足音が絶え間なく響いている。店先には色鮮やかな布や器、櫛や装飾品など、さまざまな品が並び、立ち止まって品定めをする者や、荷を担いで足早に通り過ぎる者の姿もあった。
普段よりも人の流れが多く、町全体が活気に満ちている。
「わぁ……」
雅は目を輝かせ、店先に並ぶ品々へ次々と視線を移した。その隣では、銀丸が早くも団子屋を見つけたらしく、店先の様子をうかがっている。
それに気づいた烈は、またかと言いたげにため息をついた。
そのときだった。
通りの一角で、荷を運んでいた店主が足を滑らせた。
「しまった!」
積み上げられていた木箱がぐらりと傾き、一つが地面へ落ちる。その衝撃で支えを失った箱も崩れ、通りへ向かって滑り出した。
周囲が異変に気づくより早く、弥月が動いた。
沙耶の前へ一歩踏み出し、迫ってきた木箱を両手で受け止める。勢いを殺すようにわずかに身を沈めると、そのまま箱を地面へ下ろした。
あまりに素早い動きに、周囲から驚きの声が漏れる。
「た、助かりました!」
店主が慌てて駆け寄り、深々と頭を下げた。
弥月は崩れた荷へ目を向け、足元に落ちていた木箱を拾い上げると、店主の手が届くところへ戻した。
「気を付けろ」
それだけ告げると、弥月は何事もなかったかのように沙耶の隣へ戻った。
一連の動きを黙って見ていた琉成は、弥月の横顔へ視線を向けた。迷いのない身のこなしには、日頃から剣を振るい、身体を鍛えてきた者ならではの確かさがあった。
その視線に気づいた弥月が、ふと顔を向ける。
二人の目が合った。
ほんの一瞬、言葉もなく互いを見つめる。
やがて弥月は静かに視線を逸らし、再び周囲へ目を配った。
「わぁ……! 綺麗!」
弾んだ雅の声が響き、二人の間に生まれたわずかな静けさは、たちまち町の賑わいに溶けていった。
雅が一軒の店へ駆け寄る。
「おっ、何だ何だ?」
銀丸も興味を引かれたように後を追った。
「お前には必要ないだろ……」
烈が呆れて声をかけると、銀丸は振り返りもせずに答えた。
「いいから来い!」
「お、おい!」
結局、烈も銀丸に引っ張られるようにして店へ向かった。
「沙耶、見て見て!」
雅が手招きすると、沙耶もその隣へ歩み寄った。弥月は二人に合わせて歩き、自然と沙耶の背後につく。
店先には、大小さまざまな櫛が並べられていた。木目を生かしたものから、細かな模様を彫り込んだものまであり、雅はその一つひとつを楽しそうに眺めている。
「この櫛、すっごく綺麗!」
手に取った櫛を光にかざしながら、雅が声を弾ませた。
「本当だ。素敵だね」
沙耶も隣からのぞき込み、柔らかな笑みを浮かべる。
「ねぇ弥月、この櫛とこっち、どっちが好き?」
雅は二つの櫛を手に取り、弥月へ差し出した。
弥月は一瞥しただけで、そっけなく答える。
「興味ない」
「もう!」
雅が頬を膨らませた。
「聞く相手を間違えたな……」
横から烈がぼそりと呟くと、雅は不満そうに烈を見やった。
少し離れたところでは、琉成がそのやり取りを穏やかな表情で眺めていた。
沙耶は手にした櫛へ視線を落としていたが、ふと顔を上げた。琉成の視線が自分ではなく、弥月へ向けられていることに気づいたのだ。
沙耶はゆっくりと弥月へ目を向ける。
弥月はいつもと変わらなかった。周囲を見渡し、人の動きを確かめ、沙耶のそばを離れずにいる。その横顔には、特に目立った変化は見受けられない。
しばらくして、沙耶は再び琉成を見た。
その視線に気づいた琉成が顔を向け、二人の目が合う。
琉成は穏やかに微笑んだ。
沙耶もまた、何も言わずに微笑み返す。
その傍らで、弥月がふと二人へ目を向けた。
ほんの一瞬。
だが、何かを確かめるように二人の姿を見たあと、弥月はすぐに視線を戻した。
再び目の前の人波へと目を走らせながら、沙耶の背後に控え続ける。
町の通りには、変わらず人々の声と足音が満ちていた。
――次話冒頭――
静まり返った夜の道場に、鋭い風切り音が響いていた。




