第6話「庭園の中、やわらかな風」
――前話末尾――
その賑わいの中で、弥月だけは変わらず壁際に立ち、周囲を見張り続けていた。
開け放たれた戸の向こうから、淡い月の光が差し込み、その姿を静かに照らしていた。
翌朝、杉田館の庭園には、やわらかな風が吹いていた。庭木の枝葉が揺れ、葉擦れの音がかすかに響く。陽の光を受けた池の水面はきらめき、その下では鯉がゆったりと泳いでいた。
庭園の小道を、沙耶と琉成が並んで歩いている。少し後ろには弥月が続き、そのさらに後ろを雅、銀丸、烈が歩いていた。
「こちらが庭園です」
沙耶が振り返り、庭を示した。
「見事なお庭ですね」
琉成は足を緩め、辺りをゆっくりと見渡した。整えられた木々に、手入れの行き届いた小道。池のほとりにも乱れた様子はなく、庭の隅々にまで心が配られていることが窺えた。
「父上が大切にされている場所です」
「そのようですね。皆様に大切にされていることが伝わってまいります」
琉成はそう答え、もう一度庭へ目を向けた。
後ろからは、先ほどから途切れることなく声が聞こえてくる。振り返ると、雅たちが何やら楽しげに話をしていた。
「鯉だ!」
銀丸が池を覗き込んでいる。
その声に、すぐさま烈が銀丸の腕を肘で軽く小突いた。
銀丸がはっとした顔で振り返る。
「すまん、つい……」
その様子に、雅が思わず吹き出した。
「二人って、仲が良いんだね」
雅が銀丸と烈を交互に見る。
「小さい頃からずっと一緒だからな」
「腐れ縁だ」
「そうなの? 私たちと同じだね! 私たちは腐ってないけどねー!」
雅が胸を張ると、烈は呆れたように雅を見た。一方、銀丸は何がおかしいのか分からないといった顔で、二人のやり取りを眺めている。
少し前を歩いていた沙耶が、振り返った。
「楽しそうですね」
琉成も後ろへ目を向ける。
「ええ。いつもあのような調子です」
「雅もすぐに仲良くなれる子だから」
沙耶がそう言って微笑む。
琉成はしばらくその様子を眺めていた。
身分を気にすることなく言葉を交わし、遠慮のないやり取りに笑い合う。その姿からは、長い年月を共に過ごしてきた者たちの親しさが感じられた。
やがて、琉成はふと弥月へ視線を移した。
「弥月殿は、沙耶様と長い付き合いなのですか?」
弥月の視線が琉成へ向いた。
沙耶が弥月を見ながら答える。
「弥月は昔からずっと、私を守ってくれているんです」
「そうでしたか。心強いですね」
「はい」
沙耶は嬉しそうに微笑んだ。
弥月は特に何も答えず、二人の少し後ろを歩き続けている。その表情からは、長年仕えてきたことへの誇りも、沙耶への特別な想いも、容易には窺えなかった。
ほどなくして、後ろにいた銀丸たちが追いついてくる。
「この二人も、昔からの友人です。何かと世話になっています」
琉成が二人を紹介する。
「世話だと思ったことはありませんぞ!」
銀丸が胸を張った。
「お前は世話されてんだよ」
烈がすかさず返し、琉成へ顔を向けた。
「そうでしょ? 若様」
琉成は一瞬目を丸くし、それから思わず笑った。
「否定はしません」
「えっ……?」
銀丸が固まる。
雅が堪えきれずに吹き出した。
「銀丸って本当に面白い!」
庭園に、皆の笑い声が広がった。
穏やかな時間だった。
その輪の外側から、二人の人影が近づいてくる。
「弥月殿」
宗馬だった。
隣には凛が控えている。
「何だ」
弥月が足を止める。
「本日は館下で三斎市が開かれております故、琉成殿と見分されてはどうかと与一様より言伝です」
「館下か……」
弥月が呟いた。
その言葉を聞いた雅の顔が、ぱっと明るくなる。
「市?! 行きたい、行きたい!」
目を輝かせる雅を見て、沙耶が笑った。
「雅ったら」
「良いではないですか! その土地を知りたいなら市へ行けと言いますし!」
銀丸まで乗り気になる。
「お前、食い物が目当てなだけだろ……」
烈が呆れたように口を挟んだ。
楽しげに話をしている三人を、弥月は冷たい目で見渡した。
「お前達は何故そんなに呑気なんだ?」
「ああ?」
銀丸が眉を上げる。
琉成が静かにその名を呼んだ。
「銀丸」
烈も銀丸の腕を小突く。
弥月は表情を変えなかった。
「市は人の波、余所者の往来と油断出来ぬ場所だ。お前たちの若様も無事とは限らんぞ」
その言葉に、銀丸の表情から浮かれた様子が消えた。
館下の市には、この地に暮らす者だけでなく、各地から商人や旅人も訪れる。人が集まる場所では、誰がどこから近づいてくるか分からない。ひとたび騒ぎが起きれば、護衛がそばにいても、すぐに身動きが取れなくなることもある。
弥月にとって、市はただ楽しむための場所ではなかった。人の往来が増えるほど、警戒すべきものも増える。まして、琉成は他国の若君である。何事もなく帰ることができるよう、先々まで目を配る必要があった。
「それは……」
銀丸の声が小さくなる。
「それについては、警固衆から数名護衛に就かせよと重信様が」
宗馬が告げた。
「市の見張りも増やしております」
凛が続く。
弥月は二人を見た後、しばらく黙っていた。
すでに重信も与一も、市へ出向くことを見越して手を打っているらしい。弥月一人の判断で取りやめるわけにもいかない。
「……行けということか」
小さく息を吐く。
「ならば、館下に向かう。凛、千景たちに忍ばせろ」
「御意!」
凛は一礼すると、すぐに駆け出していった。
「では、私も詰所へ」
「ああ」
宗馬も一礼し、その場を離れる。
雅は弥月に見えないように銀丸と顔を見合わせ、嬉しそうに拳を握った。銀丸もまた、先ほどの注意を忘れたわけではないのだろう。今度は声を上げず、雅と目を合わせて小さく頷いていた。
「姫様の支度を終えたら表門に向かう。其方らはそこで待たれよ」
「承知しました」
琉成が頷く。
「姫様、行きましょう」
「ええ」
弥月、沙耶、雅の三人は、庭園を抜けて沙耶の居室へ向かった。
その背中を見送りながら、琉成も動き始めた。
「さて、私たちも支度をして、表門に向かいましょうか」
「御意」
三人は離れの方へと歩き出した。
先ほどまで庭園を包んでいた穏やかな空気は変わらない。けれど、これから向かう館下には、館の中とは違う人々の暮らしが広がっている。
琉成にとっても、杉田の地を知るための新たな一日が始まろうとしていた。
――次話冒頭――
一方、沙耶の居室では、雅が小袖の裾を整えていた。




