第5話「離れの客人、視線の先」
――前話末尾――
一度、閉じられた襖へ目を向けてから、重信は踵を返す。そのまま足を止めることなく、再び詰所の方へと向かっていった。
離れの一室では、銀丸が畳の上に大の字になっていた。傍らでは琉成と烈が荷物を整理しているが、銀丸だけは天井を見上げたまま、ぴくりとも動かない。
見かねた烈が、その脚を強く蹴った。
「何で一人だけ寝てんだよ」
「痛っ!」
銀丸は飛び起き、蹴られた脚を押さえた。
「疲れ果てた。歩いたし、腹は減ったし、ずっと息が詰まりそうだったし……」
「若様も疲れてるんだぞ」
烈に呆れた顔で言われ、銀丸ははっとしたように背筋を伸ばした。
「申し訳ございませぬ!」
慌てて起き上がり、畳の上に正座する。そのあまりの変わりように、琉成は思わず笑みをこぼした。
「構いませんよ。烈、少し休みましょう」
「はい!」
烈が手にしていた荷物を置くと、琉成は二人を見やりながら立ち上がった。
「私は外の様子を見てきます。あなたたちはここで休んでいてください」
「御意!」
二人は声を揃えて返事をしたかと思うと、今度はほとんど同時に畳へ寝転がった。
その息の合った様子に、琉成は小さく笑い、静かに部屋を出ていった。
屋敷の周囲を歩きながら、琉成は目に入るものを一つずつ確かめていった。建物の配置や人の動き、行き交う武士たちの様子。警固衆がどこに立ち、どのように屋敷を守っているのかも、自然と目に入る。
やがて厩の前まで来ると、琉成は足を止めた。
繋がれた馬が、静かに鼻を鳴らしている。穏やかなその様子を眺めていると、少し離れたところから足音が近づいてきた。
振り返ると、弥月が足早にこちらへ向かってくるところだった。
「何をしている?」
先ほどと変わらぬ、警戒を含んだ声だった。
琉成はゆっくりと向き直り、穏やかに答えた。
「屋敷の様子を拝見しておりました」
「特に珍しい物はないはずだが」
「珍しい物はなくとも、警固の者たちの配置や建物の造り、手入れの行き届いた様子など、見るべきところは多くあります」
琉成は周囲へ目を向けた。整えられた庭も、厩の手入れも、行き交う者たちの動きも、決して行き当たりばったりではない。屋敷を守るため、日々の務めが積み重ねられているのが見て取れた。
「ふん、偵察か……」
弥月の目が細くなる。
「そう捉えられても仕方ありませんが……」
琉成は言い返すことなく、静かな口調で続けた。
「この先しばらく、お世話になります故。せめて、こちらの様子を知っておきたかったのです」
弥月は答えず、琉成を見据えていた。
その視線を受け止めながら、琉成は言葉を重ねる。
「すぐに信用してほしいなどとは申しません。ですが……私は勤めを果たすため、この地へ来ました」
弥月の目には、なお疑いの色が残っていた。
やがて、低い声が厩の前に落ちる。
「……その務めとやらは何であろうな」
言い終えると、弥月は琉成の横を通り過ぎ、そのまま歩き出した。
「私は……」
背後から届いた声に、弥月の足が止まる。
「もう戻れぬのですよ」
弥月は振り返らなかった。
馬が小さく鼻を鳴らす。その音だけが、二人の間に落ちた沈黙をかすかに揺らした。
やがて弥月は再び歩き出し、琉成を残して遠ざかっていく。
琉成はその背中を見送りながら、しばらく厩の前に立ち尽くしていた。
*
弥月が警固衆の詰所へ入ると、重信が宗馬とともに見張りの配置を確認していた。広げられた屋敷の地図には、離れの周囲を含め、警固衆の配置が書き込まれている。
「父上もお戻りですか」
「ああ。だが、すぐに館へ戻らねばならん。琉成殿を頼むぞ」
弥月はわずかに眉を寄せたものの、言い返すことなく答えた。
「……はい」
重信は娘の様子を気に留めることもなく、地図へ目を落としたまま宗馬に指示を続けていた。
弥月もその傍らに立ち、地図の上を動く父の指を追った。離れの周囲に配置された者たちの位置を確かめ、何かあればすぐに動けるよう、頭の中に刻み込んでいく。
やがて指示を終えた重信は、宗馬に後を任せて詰所を出ていった。
弥月もひと通り配置を確認すると、その場を後にした。
向かった先は中庭だった。
平石に腰を下ろし、離れの方へ目を向ける。庭を行き交う警固衆の姿を追いながら、ときおり離れの出入口にも視線を戻した。
人の出入りはない。
それでも弥月は腰を上げなかった。
屋敷を守る者として、客人の動向を把握しておくのは当然の務めだった。そうするように、ただそこに留まり続けた。
やがて日が傾き、庭の木々が地面に長い影を落とし始めた頃、弥月はようやく立ち上がった。
離れへ向かい、入口の前で足を止める。一呼吸置いてから、戸の向こうへ声をかけた。
「そろそろ館へ移動する。支度ができたら外へ」
すると、返事を待つ間もなく戸が勢いよく開いた。
「飯か!」
待ちきれないといった様子で、銀丸が飛び出してくる。
突然の大きな音と声に、弥月は一瞬目を見開いた。すぐさま銀丸を睨みつける。
「貴様はその戸を壊す気か?」
「あ、いや……」
鋭い眼差しに気圧され、銀丸はたちまち勢いを失った。
続いて烈が慌てて姿を現す。
「申し訳ございません。こいつは加減を知らぬところがありまして……」
その後ろから琉成も出てきて、弥月に向かって頭を下げた。
「とんだ失礼を……お許しください」
「もういい。行くぞ」
弥月はそれだけ告げると、返事を待たずに歩き出した。
三人もその後に続く。すると、烈が銀丸の腕を握り拳で殴った。銀丸は痛みに顔をしかめながらも、弥月の背中へ向けて申し訳なさそうに手を合わせている。
弥月は振り返ることなく、足早に杉田館への道を進んでいった。
*
杉田館へ着く頃には、日も傾き始めていた。
大広間には、琉成を迎える宴の支度が整えられている。膳には色とりどりの料理が並び、家臣たちがそれぞれの席に着くと、酒が注がれ、あちこちから笑い声が上がり始めた。
昼間の張り詰めた空気が嘘のように、広間は和やかな賑わいに包まれていく。
上座では、謙造と与一が琉成を囲み、杯を交わしていた。
「琉成殿も呑める口じゃな」
「いえ、それほどでも……」
琉成は杯を傾け、少し困ったように笑った。
「今宵はどうぞ、ごゆるりとお過ごしください」
与一が穏やかに声をかけると、琉成は杯を置いて一礼した。
「ありがとうございます」
その少し離れた席では、銀丸が目の前の料理を次々と頬張っていた。隣に座る雅は、呆れ半分、面白半分といった顔で、その様子を眺めている。
「銀丸、食べ過ぎじゃない?」
「そうか? まだこんなにあるぞ」
銀丸は箸を持ったまま、膳に並ぶ料理を指差した。
「一人で全部食べなくていいんだよ?」
「すぐ腹が減る故、詰め込んでおかねばな」
向かいに座る烈が、酒を口へ運びながら呆れたように口を挟んだ。
「そうだなぁ。それだけ詰め込んだら、明日は飯いらねぇな」
ぴたりと銀丸の箸が止まった。
「……え?」
その間の抜けた顔に、雅は思わず吹き出した。
「大丈夫だよ。明日もちゃんとあるよ」
「だよな! がははは!」
銀丸は安心したように豪快な笑い声を上げた。その頭を、烈が後ろから小突く。
「痛っ!」
雅はとうとう腹を抱えて笑い出した。
少し離れた席では、沙耶も三人のやり取りを見て微笑んでいた。琉成もまた、賑やかな声に穏やかな笑みを浮かべている。
そのとき、ふと視線が広間の隅へ向いた。
そこに弥月の姿があった。
宴の輪には加わらず、壁際に立っている。酒にも料理にも手をつけず、広間全体を見渡しながら、静かに周囲へ目を配っていた。
家臣たちの動き。交わされる会話。人の出入りする戸口。
弥月の視線は一か所に留まることなく、絶えず動いている。
琉成はしばらく、その姿を見つめていた。
その視線に気づいた沙耶が、隣の琉成へ目を向ける。彼の視線の先を追うと、壁際に立つ弥月の姿が目に入った。
沙耶はわずかに首を傾げたが、何も言わなかった。
琉成もやがて視線を戻し、再び謙造たちとの話に加わった。
「謙造殿、それで――」
言葉を継ぐ琉成の声に、謙造と与一も耳を傾ける。
弥月は、琉成が自分を見ていたことには気づいていなかった。
大広間には再び笑い声が広がり、杯を交わす音や家臣たちの楽しげな声が重なっていく。
その賑わいの中で、弥月だけは変わらず壁際に立ち、周囲を見張り続けていた。
開け放たれた戸の向こうから、淡い月の光が差し込み、その姿を静かに照らしていた。
――次話冒頭――
翌朝、杉田館の庭園には、やわらかな風が吹いていた。




