第10話「断固反対、静かな決意」
――前話末尾――
穏やかだった館に届いた、矢上家からの一通の書状。
その意図を測りかねたまま、謙造と与一はそれぞれに思案を巡らせていた。
杉田館、沙耶の居室。
張り詰めた空気の中、弥月の声が大きく響いた。
「断じて受けてはなりませぬ!」
座したまま、弥月は謙造と与一を真っ直ぐに見据えていた。普段の落ち着いた様子からは想像もつかぬほど、その声には強い響きがあった。
少し離れた場所では、沙耶と雅が並んで座り、成り行きを見守っている。
「これ、弥月。そのような大きな声を出すでない」
謙造がたしなめる。しかし、弥月は引き下がらなかった。
「いいえ! こればかりは引き下がれませぬ!」
「弥月、落ち着きなさい」
与一が静かに声をかけるも、弥月はすぐさま顔を向けた。
「これが落ち着いていられますか! なぜお二人は迷われているのですか……! 断固としてお断りすべきです!」
膝の上で固く握りしめた拳に、いっそう力がこもる。
「矢上琉玄が何を考えておるか分からぬのですよ。婚儀が決まりつつある今、わざわざ姫を矢上家へ招くなど――」
「我らとて、矢上殿が琉成殿をこちらへ預けたことを軽く考えてはおらぬ」
謙造が言葉を挟んだ。声は穏やかだったが、その眼差しには一国を預かる者としての重みがあった。
「我らを信用してのこと。それには、こちらも報いねばならんだろう」
「ですが! 相手は矢上です! 自ら虎口へ足を踏み入れるなど、正気の沙汰ではございませぬ!」
「弥月!」
与一の鋭い一喝が響いた。
弥月の言葉が途切れる。与一は真っ直ぐに弥月を見据えた。
「言葉が過ぎるぞ。殿のお気持ちが分からぬか?」
厳しい眼差しを受け、弥月は小さく息を呑んだ。握りしめていた拳が、膝の上でわずかに緩む。
「……申し訳、ございません」
「頭を冷やして参れ」
「はい……」
弥月は深く頭を下げて立ち上がった。その動きには、まだ収まりきらぬ苛立ちが残っていた。襖の前で一度だけ足を止めたものの、振り返ることなく部屋を出ていく。
襖が閉じられると、張り詰めていた空気の中に沈黙が落ちた。
やがて雅が立ち上がり、与一の傍らへ歩み寄ると、その袖をそっと掴んだ。
「父上……弥月は沙耶が心配なだけだよ」
与一は目を伏せた。先ほどまでの険しい表情が、少しずつ和らいでいく。
「分かっておる。……声を荒げてすまんな」
雅の頭を撫でてやると、それまで静かに成り行きを見守っていた沙耶が口を開いた。
「父上、案ずるには及びません。私は、矢上家へ参ります」
謙造は娘へ目を向けた。
「沙耶、誠に良いのか?」
沙耶は迷いなく頷いた。穏やかな笑みは、いつもと変わらない。
「はい。弥月は私が説き伏せます。お任せください」
「確かに、我らより姫の方が弥月の扱いは慣れておるな」
与一が苦笑すると、沙耶も小さく微笑んだ。
「では、そのように返事をしておく故、頼んだぞ」
謙造は立ち上がり、与一とともに部屋を後にした。
二人の姿が見えなくなると、雅は沙耶の隣へ身を寄せた。
「弥月、凄く怒ってたけど……」
心配そうな声に、沙耶は静かに目を向ける。
「あんなに怒ってる姿を見たのは、あの時以来……」
沙耶が言葉を止めると、雅は沙耶の顔を窺った。
「弥月の母上の事……?」
沙耶はすぐには答えなかった。やがて、小さく、深く頷く。
「そう。……触れないであげてね」
「分かってる」
雅もまた、小さく頷いた。
二人は視線を交わしたきり、それ以上は言葉を重ねなかった。
*
その夜、弥月は一人、杉田館の中庭にいた。
池に架かる橋の上に腰を下ろし、静かな水面を眺めている。昼間の騒ぎが嘘のように、庭は月明かりの中にひっそりと沈んでいた。
風が吹くたび、水面に映る月が揺らめき、細かな波紋となって広がっていく。
弥月は顔を上げ、夜空に浮かぶ月を見つめた。やがて、胸の内に溜まったものを吐き出すように、深く息をつく。
そのとき、庭の奥から足音が近づいてきた。
「ここに居た」
弥月は振り返らなかった。足音を聞いただけで、誰なのか分かっていた。
「……沙耶」
沙耶は弥月の隣まで歩み寄り、橋の欄干に寄り添うように立った。
二人の間を、夜風が静かに通り過ぎていく。
「まだ怒ってる?」
「怒ってなどいない」
「嘘」
弥月は答えなかった。
沙耶はその横顔をしばらく見つめていたが、やがて視線を池へと戻した。
「心配してくれてること、ちゃんと分かってるよ」
弥月の目が、わずかに沙耶へ向く。
「でもね……私も、何も考えずに矢上家へ行こうとしているわけじゃないの」
沙耶は水面に浮かぶ月を見つめたまま、静かに続けた。
「怖くないと言えば嘘になる。父上だって、きっと内心は辞退したいと思っているはず」
「……殿は、そういうお方だ」
「うん」
沙耶は小さく頷いた。
「だからこそ、私は父上の役に立ちたい」
その声には、昼間とは違う静かな響きがあった。
「私が男の子だったら、もっと父上のお役に立てるのにって、ずっと思ってた。こんな風に、父上に気苦労をかける事もなかったはず」
「気苦労などと……殿はそのように思う方ではない」
「そうね。思わないし、言わない」
沙耶は少しだけ笑った。
「でも、私自身がそう思ってしまうの」
弥月は何も言わず、沙耶の横顔を見つめていた。
「姫だから何もできないなんて、思いたくない。戦で刀を振るうことはできなくても、私にできることはきっとあるから」
沙耶はそこで一度言葉を止め、弥月へ顔を向けた。
「此度のことだって、矢上家へ行くことで杉田のためになるなら、私は行きたい」
「……危ういぞ」
弥月の声が低く響く。
「分かってる」
「矢上が何を考えているかも分からぬ」
「それも分かってる」
「ならば――」
「それでも行く」
沙耶は弥月の言葉を遮るように、静かに言った。
「私は、杉田の姫だから」
弥月は口を閉ざした。
昼間、あれほど強く反対した自分とは対照的に、沙耶の声には揺らぎがなかった。
「だから……一緒に来て」
弥月はすぐには答えなかった。沙耶を見つめたあと、ゆっくりと視線を落とす。
やがて、ぽつりと尋ねた。
「……お前は、あの男を信じているのか?」
沙耶は少し戸惑ったように目を瞬かせた。それから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「信じたい……。これから夫婦になる方だから」
弥月はその言葉を聞いたまま、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと目を閉じる。
「……分かった」
絞り出すような、小さな声だった。
弥月は立ち上がると、遠く暗がりへ視線を向けた。その先にあるのは、これから向かう矢上の地。
月明かりに照らされた横顔には、まだ拭いきれぬ不安が残っていた。
それでも、弥月はもう何も言わなかった。
沙耶もまた、何も言わず、その隣に立った。
二人の間を、静かな夜風が通り過ぎていった。
――次話冒頭――
それから数日後の朝。
杉田館の表門前には、出立の支度を終えた一行が集まっていた。




