第2話「期待と不安、和やかな旅路」
――前話末尾――
しばらく町の様子を見て回った後、三人はそのまま館へ向かって歩いていった。
館へ戻ると、廊下では女中たちが忙しなく行き交っていた。床の間の花は整えられ、座具は丁寧に並べられている。茶器を運ぶ女中も、音を立てぬよう細心の注意を払っていた。
普段と変わらない館の光景。けれど、今日はどこか張り詰めた空気が漂っていた。
三人が廊下を進んでいると、一人の家臣が足を止め、沙耶に向かって頭を下げた。
「沙耶様」
呼びかけに、沙耶も足を止める。
「どうしました?」
「殿がお呼びです」
「分かりました」
沙耶は静かに頷いた。家臣に案内され、三人は大広間へと向かう。
襖が開かれると、沙耶、雅、弥月の順に中へ入り、揃って一礼した。正面の上座には謙造が座り、その傍らには与一が控えている。
三人が顔を上げても、すぐには誰も口を開かなかった。広間には、衣擦れの音さえ遠く感じられるような静けさが満ちていた。
やがて、謙造が口を開く。
「まもなく、矢上家の次男、琉成殿がお見えになる」
その名を聞いた弥月の眉が、わずかに寄った。
「まずは挨拶を交わしてもらいたい」
「承知いたしました」
沙耶は迷いなく頷いた。その落ち着いた様子を、謙造はしばらく見つめていた。
「……見極めるのだぞ」
「心得ております」
沙耶の返答に、謙造は小さく頷いた。それから視線を弥月へ移す。
「重信から聞いておると思うが、弥月よ」
「はい」
「くれぐれも無礼のないよう、頼むぞ」
「御意」
弥月は表情を変えず、一礼した。
「では、支度をして参ります」
沙耶が静かに立ち上がる。雅と弥月もそれに続き、三人は再び一礼して大広間を後にした。
廊下へ出ると、雅が二人を見上げた。
「どんな人なんだろうね?」
少し考えるように首を傾げた後、雅は弥月へ目を向ける。
「弥月みたいに、おっかない人じゃなければいいなぁ」
「ふふっ」
沙耶が思わず笑みをこぼした。
弥月は足を止めこそしなかったものの、無言のまま二人へ不満そうな視線を向ける。そんなことはお構いなしに、雅は笑いながら弥月の腕を軽く掴んだ。
「父上みたいに優しい人だといいなぁ」
「そうだね。与一様のように穏やかな方だといいけど」
沙耶も楽しげに応じると、雅は弥月の顔を覗き込んだ。
「そうだよね? ね?」
弥月はしばらく雅を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……お前はいつでも呑気だな」
そう言って、視線を前へ戻す。
「もう! 何それ〜!」
雅が抗議の声を上げる。その隣では、沙耶がこらえきれないようにくすくすと笑っていた。
先ほどまでの広間に漂っていた緊張は、いつの間にか薄れている。弥月はまだ不満げな顔をしていたが、二人を振り払うこともなく、そのまま廊下を進んでいった。
やがて、三人の姿は廊下の奥へと消えていく。
静まり返った館内には、小さな笑い声の余韻だけが残った。
*
その頃、杉田領へ続く街道では、三頭の馬が先頭を進んでいた。
中央を行くのは、矢上家の次男・琉成だった。その左右には、近習の烈と銀丸が並んでいる。さらに後方には護衛や荷物を運ぶ者たちが続き、隊列は長く伸びていた。
琉成は前方の道を確かめながら、折に触れて周囲の林や丘へ目を配った。道が曲がるたびに先を見通し、時折、後ろを振り返って隊列に乱れがないかも確認している。
やがて道幅が狭くなったところで、烈が前方へ目を向けた。
「若様。この先は道が細うございます。隊列を詰めさせましょうか」
「お願いします」
琉成が頷くと、銀丸はすぐに馬首を返した。
「我が伝えてきます!」
そう言い残し、銀丸は後方へと馬を走らせていく。やがて列の者たちへ声をかけ、隊列を整え始めた。
しばらくして、銀丸が再び戻ってきた。
「若様、整いました!」
「ご苦労」
「へい!」
銀丸は満足そうに頷くと、再び琉成の隣へ馬を寄せた。
そのまま一行は街道を進んでいったが、しばらくすると琉成が馬の歩みを緩め、やがて手綱を引いた。
「ここからは少し歩きましょう」
「なぜです?」
銀丸が不思議そうに尋ねる。
琉成は馬上から道の先へ目を向けた。
「民の暮らしがよく見えるからです」
その言葉に、烈が周囲を見渡して頷いた。
「確かに、同じ目線の方が良いですね」
二人もすぐに馬を降り、周囲に気を配りながら馬を従者へ預けた。琉成も手綱を渡すと、歩き出す前に後方へ目を向ける。
「ここからは歩いて進みます。皆も無理のないように」
烈が従者たちへ声をかけると、長く続いていた隊列の歩みが緩んだ。
「では、参りましょう」
琉成を先頭に、三人は青空の下、街道を歩き始めた。
道の両脇には、広々とした畑が続いていた。農民たちは朝から土を耕し、畝を整えている。幼い子どもたちも大人に交じって鍬を握り、その少し離れたところでは、親らしき農民が時折手を止めながら、子どもの様子を見守っていた。
土の匂いが風に混じり、辺りを流れていく。
遠くには青々とした田畑が広がり、その向こうには山々が連なっていた。街道を行き交う人々の姿も多い。荷を積んだ荷車がゆっくりと通り過ぎ、農具を抱えた者が足早に歩いていく。町へ向かうらしい商人の姿もあった。
皆それぞれに忙しそうではあるが、その表情にはどこかゆとりが感じられた。
琉成は歩みを緩め、そんな光景を眺めていた。
「……よく耕されていますね」
「はい」
烈も周囲を見渡す。
「土地が豊かなのでしょう。民の顔にも余裕がございます」
「そうですね」
琉成は小さく頷いた。
しばらく進むと、畑で働いていた子どもがこちらに気づいた。手にしていた鍬を止め、見慣れぬ三人をじっと見つめている。
琉成が目を合わせて微笑みかけると、子どもは一瞬ためらった後、照れたように笑った。そして、少し恥ずかしくなったのか、すぐに父親の後ろへと隠れてしまう。
その様子に、琉成の目元がわずかに和らいだ。
「穏やかな国ですね」
銀丸も辺りを見回しながら頷いた。
「ええ。良いところですな。嶺賀国とは違って、平地も多い」
「そうですね」
三人は畑や田園の景色を眺めながら、街道を歩き続けた。
しばらくすると、銀丸が琉成の背中へ声をかける。
「若様、まだですか?」
「何回聞くんだよ」
烈が呆れたように言った。
「腹が減ってきた」
「今朝の握り飯をあれだけ食うておいて……」
琉成は振り返り、二人の顔を見比べて小さく笑った。
「もう少しですから」
「黙って歩けよ」
「へい」
銀丸は素直に返事をすると、再び歩き出した。先ほどまで空腹を訴えていたのが嘘のように、今度は黙って周囲を見回している。
――もっとも、その静けさは長くは続かなかった。
道端に差しかかった小さな店の前に、焼いた餅が並べられていた。香ばしい匂いが風に乗って漂ってくる。
銀丸の視線が、そちらへ吸い寄せられた。
歩みがほんのわずかに緩む。
「……銀丸」
烈の低い声が飛んだ。
「へい?」
「行くなよ」
「まだ何も言っておらんのに」
「顔に書いてある」
琉成は振り返り、二人のやり取りを見て笑った。
銀丸は残念そうに店から目を離したものの、食べ物への未練は隠しきれないらしい。歩きながらも、ちらちらと店先を振り返っていた。
やがて街道が再び開けると、銀丸の視線は今度は道の先へと移った。
林の中。道脇の茂み。その先に続く街道。
先ほどまでの様子とは違い、周囲に目を配るその眼差しには、近習としての警戒が戻っていた。
しばらくして、銀丸が再び口を開いた。
「……若様」
琉成が振り返った、その瞬間だった。
静かな街道に、ぐう、と銀丸の腹の音が響いた。
琉成は思わず吹き出した。烈も呆れた顔で銀丸を振り返る。
「お前、ここは泉穂国だぞ。もっと気を引き締めろよ!」
「腹が勝手に……」
「うるさい!」
銀丸は肩をすくめ、気まずそうに頭を掻いた。
「まあまあ」
琉成は二人をなだめるように声をかけたが、その顔にはまだ笑みが残っていた。
三人の声が、穏やかな街道に響いていく。
豊かな田畑と、そこで暮らす人々。行き交う者たちの表情。そして、隣で言い合いを続ける二人の近習。
琉成は歩みを進めながら、目の前に広がる泉穂の景色を、ひとつひとつ確かめるように眺めていた。
――次話冒頭――
やがて街道の先に、ひときわ高い山が見えてきた。




