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第1話「姫の護衛、つかの間の平穏」

――時は戦国時代。幕府の権威は失墜し、各地で争乱が巻き起こっていた。


九州から南へ下がった海域に浮かぶ汐見島《しおみのしま》。その島内には、泉穂国《いずほのくに》、嶺賀国《みねがのくに》、栄江国《さかえのくに》の三国が存在していた。互いに牽制し合いながらも、三国は長く均衡を保っている。


その三国の一つ、杉田家が治める泉穂国。作物が豊富に採れ、自然に恵まれたこの国では、民が飢えることもなく、穏やかな暮らしが営まれていた。


そんなある日――。


国の中央に建つ杉田館では、朝から騒がしい気配が漂っていた。


廊下を、一人の女剣士が足早に進んでいく。苛立ちを隠そうともせず、前だけを見据えるその足取りは、いつも以上に荒々しい。静かな廊下に、硬い足音が響いていた。


「弥月《やづき》殿、お待ちください」


後ろから追う部下の宗馬《そうま》が、必死に声をかける。しかし、弥月は聞こえていないかのように歩き続けた。


「恐れながら……弥月殿が口を挟まれる事ではございません」


「黙れ」


短く言い放ち、弥月は足を緩めない。宗馬はそれ以上言葉を続けられず、困り果てた様子で後を追った。


そのとき、背後から別の足音が重なった。部下の凛が、弥月の父である重信《しげのぶ》を伴って走ってくる。


「待て、弥月」


聞き慣れた重厚な声が廊下に響いた。それでも弥月は立ち止まろうとしなかった。


次の瞬間、追いついた重信が弥月の肩を掴んだ。


「弥月」


行く手を阻まれ、ようやく足を止めた弥月は、ゆっくりと振り返った。


「父上」


不満を隠そうともせず、父を見つめる。その眼差しには、どうしても納得できないという思いが滲んでいた。


重信は娘の目を真っ直ぐに見返した。


「これは決まった事だ。今更お前が騒いだとて覆らん。……姫様の御覚悟、誰より分かっておるのは、お前ではないのか」


弥月の眉がわずかに寄る。


「ですが……本当に、矢上と婚儀をさせるおつもりですか! あの国がどういう国か、殿もご存知のはず!」


抑えていた感情が、声とともに溢れ出した。


「我らも承知の上だ。それでもこの婚儀には意味がある。……お前は姫様の御覚悟を汚すつもりか」


「汚すなど……!」


弥月は言葉に詰まった。


重信の手が、まだ肩に置かれている。振り払うこともできず、弥月は父を見つめたまま唇を引き結んだ。


しばらくして、悔しそうに顔を背ける。


「……分かりました」


それだけ告げると、弥月は重信の手を離れ、来た道を引き返していった。


凛と宗馬は重信に一礼し、慌ててその後を追う。重信は何も言わず、遠ざかっていく娘の背中を見送っていた。


廊下の先で、弥月はふと足を止めた。


胸の内に燻る思いを押し込めるように、深く息を吐く。しばらく目を伏せていたが、やがて顔を上げ、再び歩き出した。


その先から、聞き慣れた声が聞こえてくる。


「弥月、もう行くよ」


沙耶だった。その隣には雅もいる。


二人の姿を見つけた弥月は、足を止めた。


「……ああ」


返事は短かった。けれど、先ほどまで張り詰めていた声には、わずかな落ち着きが戻っている。


弥月が二人のもとへ歩み寄ると、沙耶はその顔を一度見つめた。何かを尋ねることも、気遣う言葉をかけることもない。ただ、いつもと変わらぬ調子で微笑んだ。


その隣で、雅が弥月の顔を覗き込む。


「行こっ」


「ああ」


弥月は小さく頷いた。


三人は並んで館を出て行った。


*


館下町《たてしたまち》へ続く道を歩き始めると、沙耶と雅の話し声が弥月の耳に届いた。


今日の天気のこと。町へ出たら何を見ようかということ。雅が途中で何か買ってほしいとねだる声。


他愛のない話ばかりだった。


弥月は時折、短く返事をするだけだったが、二人の声を聞いているうちに、ささくれ立っていた気持ちが少しずつ和らいでいく。先ほどまで頭の中を占めていた婚儀のことも、今だけは遠のいていた。


やがて三人は館下町へ入った。


柔らかな朝の光に包まれた町では、店を開ける商人たちが戸を開き、店先には採れたばかりの野菜が並べられていた。井戸端では女たちが談笑し、通りのどこかから子どもたちの笑い声が聞こえてくる。


いつもと変わらない、穏やかな朝だった。


弥月は沙耶の半歩前を歩いていた。視線は前へ向けたまま、ときおり屋根の上へ、路地の奥へと動かしている。町の人々が交わす挨拶や賑やかな声に囲まれていても、周囲への警戒を怠ることはなかった。


沙耶と雅は並んで歩き、その少し後ろを凛と宗馬が見守るように追従している。


「気持ちいい朝だねぇ」


雅が空を見上げた。


「ええ」


沙耶も穏やかに答える。


「いよいよ今日だね」


「そうね」


沙耶は小さく頷いた。


雅はしばらく空を眺めていたが、やがて弥月へ目を向けた。


「ねぇ、弥月。矢上家の若様って、どんな人か知ってる?」


「知らん」


即答だった。


雅は呆れたように笑い、隣の沙耶へ目を向けた。


「もう、相変わらず」


沙耶も小さく笑った。


その笑い声を聞いて、弥月の口元がほんのわずかに緩む。本人も気づかないほどの、小さな変化だった。


そのとき、向こうから荷車がやってきた。


弥月はさりげなく歩く位置を変え、沙耶を荷車から遠ざける。沙耶も何も言わず、その動きに合わせた。雅も二人の様子を見て、自然に身を寄せる。


荷車が三人の横を通り過ぎると、何事もなかったかのように再び歩き始めた。


言葉を交わさずとも、互いの動きが分かる。その自然なやり取りには、三人が長い時間を共に過ごしてきたことが表れていた。


通りの向こうで、沙耶の姿に気づいた商人が声をかける。


「姫様! おはようございます!」


沙耶は足を止め、商人に微笑んだ。


「おはようございます」


商人は嬉しそうに頭を下げる。


「姫様のおかげで、この町は今日も平和です」


沙耶は小さく首を横に振った。


「違います。この町を支えているのは、みなさんの力です。私の方こそ感謝せねばなりません」


商人は一瞬、言葉を失った。


やがて照れくさそうに笑うと、腕まくりをする。


「ありがたいお言葉ですなぁ。よし! もっと励まねぇとな!」


その声を聞いて、近くにいた町人たちからも笑い声が上がった。


「おう!」


「今日も頑張るか!」


通りに活気が戻っていく。


沙耶は町人たちの声に微笑み、雅も楽しげに笑った。


その隣で、弥月は活気づく通りに目を向けていた。


人々の顔には笑みが浮かび、店先では商人たちが忙しそうに働いている。誰もが当たり前のように朝を迎え、それぞれの日常を送っていた。


弥月は視線を戻し、再び沙耶の半歩前を歩き始めた。


しばらく町の様子を見て回った後、三人はそのまま館へ向かって歩いていった。

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