第18話「滲む爪痕、消えぬ苛立ち」
――前話末尾――
重信は何も告げなかった。
脇腹を押さえたまま、再び前を向き、静かに表門の外へと消えていく。
その背中を、琉成は黙って見送っていた。
夜の杉田館に、松明の明かりが揺れていた。
表門の前には、傷を負った警固衆たちが次々と戻ってくる。家臣たちは駆け寄り、負傷者の身体を支えながら、急ぎ館の中へと運び込んでいた。門前には血の匂いと、戦いを終えた者たちの荒い息遣いが残っている。
その中で、謙造と巴、与一、楓は一行の帰りを待ち続けていた。
やがて、門の向こうから小さな姿が駆けてくる。
「母上……!」
声に気づいて、楓が振り向いた。
「雅……」
母の姿を見つけた雅は、その胸へ飛び込んだ。楓も娘の身体を強く抱きしめ、無事を確かめるように背中を撫でる。
少し離れたところでは、謙造と巴が沙耶のもとへ駆け寄っていた。
「沙耶……! 無事であったか……!」
「父上……」
沙耶の目に涙が浮かぶ。謙造はそれ以上何も言わず、娘の肩を抱き寄せた。巴もそっと沙耶の背に手を添え、無事に戻った娘をいたわる。
その少し後ろから、弥月がゆっくりと門をくぐってきた。衣服には血が滲み、右肩を庇うようにして歩いている。
さらに、家臣たちが戸板に横たわる重信を運んできた。
「重信!」
その姿を見た与一が、血相を変えて駆け寄る。
重信は苦しげに息を吐きながらも、ゆっくりと顔を上げた。
「……大した傷ではない」
いつものように強がってみせる。だが、着物は脇腹から流れた血で深く染まり、その顔にも疲労の色が濃く浮かんでいた。
弥月は少し離れた場所に立ち、父の姿をじっと見つめていた。
与一は重信の傷に目を落とすと、すぐさま家臣たちへ指示を出した。
「急ぎ、御匙のところへ運べ!」
「はっ!」
家臣たちが戸板を担ぎ直し、館の奥へと向かっていく。その後ろ姿を見送った与一は、今度は弥月へと視線を移した。
「弥月、お前も傷を負っておるではないか」
「大した傷ではありません……」
「親子揃って、同じことを言いおって」
与一は呆れたように息を吐き、弥月の右肩を見やった。
「お前も御匙に診てもらえ」
「お気になさらず……」
弥月はそのまま歩き出そうとした。だが、与一の手が肩へ伸びた瞬間、思わず顔を歪める。
「うっ……」
触れられた右肩に痛みが走り、弥月の身体がわずかに強張った。
それを見た与一が、眉を上げる。
「意地を張るでない」
近くにいた家臣へ手招きした。
「弥月を御匙のところへ。逃げぬように、しっかりと見張っておれ」
「はっ!」
弥月は不満そうに口を結び、しかめ面で与一を見つめた。けれど、与一は咎めるでもなく、どこか優しい笑みを浮かべている。
「参りましょう」
促す家臣の声に、弥月は小さく息を吐いた。やがて諦めたように踵を返し、渋々その場を離れていく。
「皆も中へ」
与一の声に、門前で待機していた警固衆たちが一礼した。疲労の滲んだ足取りで、彼らもまた館の中へと入っていく。
*
しばらくして、館には少しずつ静けさが戻ってきた。
傷の手当てを終えた弥月は、休むよう言われていたにもかかわらず、重信のいる部屋へ足を向けていた。
襖の前まで来ると、足を止める。中から御匙の声が聞こえていた。
弥月は襖の前に座し、じっと耳を澄ませる。何かを尋ねることもできず、ただ中の様子を窺っていた。
やがて襖が開き、御匙が顔を覗かせた。
「弥月様……」
「父は……?」
「今、診ております。どうぞ、お入りください」
弥月は小さく頷き、部屋へ入った。
畳の上には重信が横たわり、その傍らでは謙造と与一が見守っている。御匙は重信の脈を取り、傷の様子を確かめていた。
しばらくして、御匙が顔を上げる。
「大分、落ち着いたようです」
謙造がわずかに息を吐いた。だが、御匙の表情は晴れない。
「傷口が深い上、相当なご無理をなされた様子。金創医の息子にも手を借り、傷口は閉じましたが……幾分、大量の血を流されております」
謙造の顔から、わずかな安堵が消えた。
「助からぬのか……?」
「予断を許しませぬ」
弥月は膝の上で両手を握り締めた。指先に力がこもる。それでも顔を上げたまま、父から目を逸らそうとはしなかった。
御匙は重信の顔を見つめ、慎重に言葉を続ける。
「最善は尽くしますが、ご本人の体が耐えうるかどうか……」
部屋に重い沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、与一だった。
「重信の取り柄は、昔から体が丈夫な事だけであった。……弥月を置いて、逝きはせぬだろう」
弥月は何も答えなかった。
ただ、眠る父の顔を静かに見つめ続けている。
謙造もまた、不安を隠せない面持ちで重信を見やった。
「それはそうだが……」
やがて御匙へ向き直り、静かに告げる。
「御匙、引き続き頼むぞ。何かあれば、すぐに知らせよ」
「かしこまりました」
謙造と与一は弥月を促し、部屋を出た。
*
三人は大広間へ戻ると、それぞれ腰を下ろした。誰もすぐには口を開かず、しばらく沈黙が続いた。
やがて謙造が、重い口調で言った。
「……此度の婚儀は、偽りであったのだな」
「そのようです」
弥月は淡々と答えた。
「琉成殿は、なかなかに器量の良き男だと思うておったが……」
「所詮、琉玄の息子です。それも謀でしょう。我らはまんまと嵌められたのです」
弥月の声には、冷たさが滲んでいた。
与一は眉を寄せ、腕を組みながら小さく息を吐く。
「あの琉成殿が……誠に信じ難いことだ……」
「あの男は終始、姿を現しませんでした。それが何よりの証ではありませんか」
与一は眉を寄せたまま小さく頷き、建造の方を向いた。
「……しかし、琉玄殿にしては、姑息な手を使うな」
「欲が出たか……」
謙造が低く呟いた。
その言葉に、弥月が顔を上げる。
「矢上は山に囲まれた土地故、我らの穂積や青野のように、田畑に恵まれた地がありません。それ故、豊かな地を狙っておるのではないですか」
謙造は、淡々と語る弥月を見つめた。
「だからこそ、我らと同盟を結び、武と糧で助け合おうとしておったのではないか」
「貪欲な男故、全てを手に入れたいのでしょう。このままでは、攻め込まれます」
弥月の言葉に、与一も頷いた。
「手を打たねばならんな。武力となれば、向こうが有利ではある」
「うむ……」
謙造も考え込むように目を伏せた。
やがて与一が、弥月へ視線を向ける。
「だが、一先ずは……屋敷へ戻り身体を休めよ。弥月」
「御匙様にも診てもらいましたし、私は問題ありません」
「姫のことなら案ずるな。暫く奥を出ることはない」
与一の声は穏やかだった。それでも弥月が何か言おうとすると、先回りするように続ける。
「重信も我らに任せよ。お前は、身体を休めるのが先だ」
「ですが……」
「余の命なら、従ってくれるか?」
謙造が静かに言葉を挟むと、弥月は眉を寄せた。反論しかけた口を閉ざし、しばらくして不満そうに顔を伏せる。
「……御意」
一礼すると、弥月は静かに広間を出ていった。
その背中を見送り、謙造が小さく息を吐く。
「あれは、なかなかに頑固だな」
与一が笑いながら続けた。
「命だと言えば、従わざるを得ない性分も、父親そっくりだ」
二人は顔を見合わせ、静かに笑った。
*
夜も更け、重信の屋敷では皆が寝静まっていた。
その静寂を破るように、道場から鋭い風切り音が響いていた。
弥月が一人、木刀を振っている。
一太刀。二太刀。三太刀。
木刀が空を切るたび、衣擦れの音が道場に響く。右肩には手当てが施されていたが、動かすたびに傷が引きつった。それでも弥月は手を止めず、木刀を振り続けた。
次の一太刀を繰り出そうとした瞬間、右肩に激痛が走る。
「くっ……!」
木刀が手から零れ落ち、床に乾いた音を立てた。
弥月は顔をしかめ、肩を押さえた。手当てをしたばかりの傷から、着物へじわりと血が滲んでいく。
しばらく痛みに耐えていたが、やがて身を屈めて木刀を拾い上げた。再び構えようとした、その時。
入口の方から、足音が響いた。
弥月の動きが止まる。
気配を感じ取り、ゆっくりと入口へ目を向けた。
そこには、琉成が立っていた。
二人の視線が交わる。
夜の静けさの中、道場には張り詰めた沈黙が満ちていた。
――次話冒頭――
弥月は険しい眼差しで琉成を睨みつけると、手にしていた木刀を脇へ投げ捨てた。




