第15話「見えぬ刃、動き出した思惑」
――前話末尾――
町へ出る前にはなかった変化が、確かにそこにあった。
青峰館の中では、先ほどまでとは違う緊張が漂っていた。
廊下を行き交う家臣たちの足取りは早く、表門だけでなく館の奥にも兵の姿が増えている。町へ出る前には見られなかった光景を横目に、琉成は父の待つ主殿へと向かっていた。
やがて襖の前で足を止めると、姿勢を正して声をかけた。
「琉成にございます」
中から低い声が返ってくる。
「入れ」
琉成が襖を開けると、主殿の奥には琉玄が一人、鎮座していた。
「父上、お呼びでしょうか」
琉玄はすぐには答えず、入ってきた息子をじっと見つめた。やがて、低い声で尋ねる。
「杉田家はどうであった?」
「杉田家の方々は、皆、良き方ばかりです」
琉成は朗らかに答えた。
「杉田殿は穏やかな方で、私にもよくしてくださいます。最近では、軍師の与一殿から学ぶことも多く、充実した日々を過ごせております」
「……そうか」
楽しそうに話す琉成に対し、琉玄の返事は短かった。
琉成はわずかに首を傾け、父の顔を見つめた。何かを探るような視線に気づいたのか、琉玄は黙ったまま息子を見返している。
「父上」
琉成は一度言葉を切った。
「此度の縁談ですが……」
言葉を選ぶように、わずかな間を置く。
「ただ国のためだけではなく、人として向き合うべきかと存じます」
琉玄の眉が、かすかに動いた。
「お前は相変わらず甘いのう。すっかり絆されおって」
琉成は何も答えなかった。
反論することはできる。だが、今ここで言葉を重ねたところで、父の考えを変えることは難しいだろう。そう思ったのか、琉成は口を閉ざしたまま、琉玄の目を見つめていた。
やがて琉玄は小さく息を吐き、ふいと視線を逸らした。
「もうよい。下がれ」
「父上、何か――」
「下がれ」
今度は、はっきりとした声だった。
琉成は口を閉じた。父の顔には、これ以上話すつもりはないという意思が表れている。それでも、先ほどからの短い返答や、ふいに逸らされた視線が気にかかっていた。
「……承知いたしました」
琉成は一礼し、主殿を後にした。
閉じられた襖の前で、しばらく足を止める。振り返っても、その向こうからは何の物音も聞こえなかった。
やがて琉成は小さく息を吐き、再び歩き出した。父の部屋から遠ざかる足音が、長い廊下に響いていく。
*
一方、離れでは沙耶と雅が縁側に並び、庭を眺めていた。
庭木の葉が風に揺れ、差し込む光の中で柔らかな影を落としている。昼間の賑わいが嘘のように、辺りは穏やかだった。
しばらく庭を眺めていた雅が、ふと思い出したように口を開いた。
「琉成様って、いつも笑ってるけど……本当は寂しい方なのかな?」
沙耶は隣に座る雅へ目を向けた。
「高台でのこと?」
「そう」
雅は頷き、再び庭へ視線を戻した。
「館の中より外の方が好きって……何だか寂しいと思わない?」
沙耶はすぐには答えなかった。
高台で町を見下ろしていた琉成の横顔が、ふと脳裏をよぎる。風を受けながら遠くを見つめる姿は、館の中で人々に囲まれている時とは、どこか違っていた。
「息が詰まるってことじゃないかな」
「空気は……悪くなさそうだけど」
雅が不思議そうに首を傾げる。その返事に、沙耶は思わず笑みをこぼした。
「そうじゃなくて」
「じゃあ、何?」
沙耶は答えず、庭へ目を向けた。
雅は納得のいかない顔でしばらく沙耶を見ていたが、やがて同じように庭を眺め始めた。
風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと音を立てる。
その穏やかな時間は、部屋の外から聞こえた足音によって破られた。
離れの入口では、待機していた凛のもとへ一人の男が近づいていた。矢上家の家臣、柴田である。
凛は男に目を向けると、部屋の中へ声をかけた。
「沙耶様、矢上家の方がおいでです」
「どなたですか?」
部屋の中から弥月が尋ねると、柴田は襖の前で膝をついた。
「矢上家家臣、柴田でございます」
弥月が声のした方へ顔を向ける。
「用件は?」
「殿が沙耶様をお呼びです」
部屋の中に、わずかな沈黙が落ちた。
やがて沙耶が静かに尋ねる。
「今からですか?」
「そのように仰せです」
沙耶は弥月へ目を向けた。
弥月は表情を変えず、ほんの一瞬だけ沙耶と視線を交わす。弥月がすぐに柴田へ向き直ると、沙耶は短く答えた。
「……承知いたしました」
沙耶が立ち上がり、襖が開けられる。柴田は沙耶に一礼してから、ゆっくりと立ち上がった。
「ご案内いたします」
柴田が歩き出すと、沙耶もその後に続いた。弥月はすぐ後ろにつき、雅も続く。凛と宗馬も後方に控え、一行は離れを出た。
主殿へと続く廊下を、誰も口を開かずに進んでいく。
やがて入口に差しかかったところで、柴田が足を止めた。
「恐れながら……」
振り返った柴田の顔には、ためらいが浮かんでいた。
「殿からは、沙耶様お一人と仰せつかっております」
弥月の足が止まった。
「護衛を外せと?」
「両家の大事なお話ゆえ……」
柴田は言葉を濁した。
その前へ、弥月が一歩進み出る。
「ならば、尚更だ」
柴田をまっすぐに見据え、迷いのない声で続けた。
「私はただの護衛ではない。此度の采配を任されている」
「で、ですが……私は殿より仰せつかったことをお伝えしたまで」
「私も同行する」
弥月の声は揺るがなかった。
「そうでなければ、承服できん」
柴田は返す言葉を失った。しばらく口をつぐんでいたが、やがて困惑を隠せない様子で頭を下げた。
「そのように申されましても……殿のご意向ですゆえ」
弥月の目が細くなる。
「ならば、琉玄殿に伝えろ。ご意向には添えぬ。我らはこれより杉田へ戻ると」
「なんと!?」
柴田の声が廊下に響いた。
思いがけない言葉に、沙耶が驚いて弥月を見る。
「弥月!」
弥月は沙耶を振り返ったが、言葉を撤回することはなかった。
「凛」
「はい」
「急ぎ支度をさせろ」
「御意」
凛はすぐさま一礼し、その場を離れた。弥月が宗馬へ目を向けると、宗馬も意図を察したように頷き、後を追うように動き出した。
その様子を目の当たりにした柴田は、もはや引き止める言葉も見つからず、慌てて琉玄のもとへ向かった。
「待って、弥月」
沙耶が弥月の腕を掴んだ。
弥月は足を止め、腕に触れる沙耶の手を見下ろした。指先には、かすかな震えが伝わってくる。
弥月はその手を振りほどくことなく、そっと沙耶の肩に手を置いた。
「このような扱いを受けてなお、この館に残る理由はない」
「でも……」
「雅、身支度を整えろ。急げ」
弥月に声をかけられ、雅は戸惑いながらも頷いた。
「わ、分かった」
雅が部屋へ戻っていく。弥月は沙耶の肩に置いていた手を背中へ回し、促すようにしてその後を追った。
*
部屋へ戻ると、弥月はすぐに荷物をまとめ始めた。
衣類を畳み、必要なものを選びながら手早く荷へ収めていく。その様子を、沙耶は困惑した顔で見つめていた。
「弥月、このままだと琉玄様にご無礼だよ」
弥月の手が止まった。
「先に礼を欠いたのは琉玄殿だ」
振り返ることなく、静かな声で答える。
「大義名分はこちらにある」
沙耶は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
弥月は再び荷物へ手を伸ばし、手早くまとめていく。迷いのないその手つきに、沙耶は視線を落とした。
廊下の向こうでは、家臣たちが慌ただしく行き交う気配がする。
沙耶はそちらへ目を向けたまま、口を閉ざしていた。
部屋には、荷をまとめる音だけが淡々と響いていた。
――次話冒頭――
館内では、兵たちが慌ただしく動き始めていた。




