第13話「夜の宴、揺れる灯火」
――前話末尾――
目に見える異変はない。
だが、青峰館に足を踏み入れてから、弥月の警戒が解けることはなかった。
夕刻になると、一行は再び大広間へと通された。
広間には豪華な料理が並び、矢上家の家臣たちも席についていた。杯を交わす音に混じって談笑する声が聞こえてくるものの、杉田館での宴のような賑やかさはない。誰もが和やかに振る舞ってはいるが、どこか控えめで、広間には落ち着いた空気が漂っていた。
「口に合えばよいのだが」
上座に座る琉玄が声をかけると、沙耶は膳へ目を向け、柔らかく微笑んだ。
「どれもとても美味しそうです」
「すごい……!」
雅も目を輝かせ、膳に並ぶ料理を見渡した。その隣では、銀丸がすでに待ちきれない様子で箸を手にしている。
「いただきます!」
勢いよく箸を伸ばしかけたところで、烈の声が飛んだ。
「待て」
「……あ」
銀丸の手がぴたりと止まる。
それを見ていた琉真が、小さく笑みをこぼした。
「銀丸。殿の御前です」
琉成にもたしなめられ、銀丸は慌てて背筋を伸ばした。
「これは失礼!」
大真面目に頭を下げる姿に、沙耶や雅の顔にも笑みが浮かぶ。張り詰めていた広間の空気が、ほんの少し和らいだ。
弥月はしばらく周囲へ目を向けていたが、やがて隣から声をかけられた。
「弥月」
顔を向けると、沙耶が目の前の膳を指すように視線を落とした。
「ほら、冷めちゃうよ」
「……ああ」
弥月は小さく頷き、ようやく箸を取った。
その様子を見ていた琉玄が、杯を手に琉成へ目を向ける。
「琉成、泉穂国はどうであった?」
「とても良いところです。町も活気があり、民も穏やかに暮らしていました」
「そうか」
琉玄は杯を傾けながら、息子の顔を眺めていた。
「随分と楽しそうに話すようになったな」
「……そうでしょうか」
琉成は少し戸惑ったように笑う。
「ああ。以前のお前なら、そこまで土地の話をすることもなかった」
「泉穂国では、いろいろなものを見せてもらいましたから」
そう答える琉成の声には、穏やかな響きがあった。
琉玄はしばらく息子を見つめていたが、やがて満足そうに頷いた。
「そうか」
それ以上、問いを重ねることはなかった。
その後も、宴は穏やかに続いた。
弥月は料理を口に運びながら、と。
きおり周囲へ目を向けていた。雅と銀丸は料理の話で盛り上がり、銀丸が気になる品を見つけるたびに身を乗り出しては、烈にたしなめられている
「まったく……」
呆れたように二人を見つめる弥月の隣で、沙耶がくすりと笑った。
そんなやり取りが幾度か繰り返されるうちに、宴は静かに幕を閉じた。
*
その夜、館の庭から虫の音が響いていた。
弥月は一人、縁側に腰を下ろし、暗い庭を眺めていた。昼間は花々に彩られていた庭も、今は月明かりの届くところだけがぼんやりと浮かび上がっている。
そこへ、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「ここにいた」
振り返ると、沙耶が立っていた。
「凛はどうした? 一人で出歩くなと言っただろ」
「置いてきちゃった」
「お前な……」
弥月は呆れたように眉を寄せたものの、隣に腰を下ろそうとする沙耶を止めはしなかった。
二人は並んで庭を眺めた。しばらくの間、どちらも口を開かなかったが、やがて沙耶が弥月へ顔を向けた。
「それより、今日はどうだった?」
弥月は庭へ目を向けたまま、少し間を置いて答えた。
「……今のところ、不自然な点はない」
その言葉に、沙耶はほっとしたように微笑んだ。
「そうだよね。みんな優しい人たちだった」
「……だが、信じるにはまだ早い」
弥月の言葉に、沙耶はすぐには答えなかった。
夜風が二人の間を吹き抜け、庭の木々をかすかに揺らす。
やがて沙耶が、再び口を開いた。
「私も本当は不安だったけど……安堵した」
弥月が横目で沙耶を見る。
沙耶は柔らかく微笑んでいた。
「ここで、琉成様は暮らしてたんだね」
「そうだな」
沙耶は辺りをゆっくりと見渡した。昼間に歩いた庭も、今は夜の静けさに包まれている。
「この庭も、昔からあったのかな」
「さあな」
「どんな子供だったんだろう?」
沙耶は少し楽しそうに笑った。
「意外と周りを困らせたり、怒られたりしてたかも」
「それはお前と雅だろ……」
弥月が呆れたように返すと、沙耶は小さく頬を膨らませた。
「もう」
その様子に、弥月の口元もわずかに緩む。
しばらく二人で庭を眺めていたが、沙耶はふと思い出したように弥月へ目を向けた。
「でも、琉成様って昔からあんな感じだったのかな」
「……どうだろうな」
弥月は少し考えてから答えた。
「あいつは、皆が顔色を窺ってくるのを気にしていたそうだ」
沙耶の笑みが、ほんの少しだけ止まった。
「……そうなんだ」
「本人から聞いた」
弥月が何気なく付け加えると、沙耶はわずかに顔を向けた。
「琉成様から?」
「ああ」
弥月は再び庭へ目を戻した。
隣では、沙耶も同じように庭を見つめていた。けれど、その横顔からは先ほどまでの明るい笑みが消えている。
「……弥月には、そういう話をされるんだね」
小さな声だった。
「ん?」
「ううん。なんでもない」
沙耶は微笑もうとした。けれど、その笑みは先ほどよりもどこか頼りなかった。
弥月は何も言わず、沙耶の横顔を見つめる。
やがて沙耶は、再び庭へと目を向けた。
「私には、あまりご自分のことを話してくださらないんだ」
「気になるなら聞けばいいだろ」
「……そうだね」
弥月はそれ以上、何も言わなかった。
沙耶もまた、口を閉ざしたまま庭を見つめていた。
虫の音だけが、静かな夜に響いていた。
*
同じ頃、館の一室では灯火が揺れていた。
薄暗い部屋の中で、琉玄と一人の家臣が向かい合っている。
柴田 邦保。年の頃は四十ほど。主君を前にしても表情に大きな変化はなく、落ち着いた佇まいを崩さなかった。
琉玄はしばらく黙っていたが、やがて低い声で尋ねた。
「……首尾は」
「滞りなく。誰一人として疑ってはおりませぬ」
柴田の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「杉田家の姫は?」
「すっかり安堵されているようでございます」
「弥月は」
柴田は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……まだ警戒しております」
「そうか」
琉玄はわずかに目を細めた。
「だが、あやつにはしばらく好きにさせておけ。疑いを持たせぬことの方が大事だ」
「承知しております」
柴田の返答に、琉玄は静かに頷いた。
「では、そのまま進めよ」
「御意」
柴田は深く頭を下げ、部屋を出ようとした。
その背に、琉玄の声がかかる。
「柴田」
「はっ」
柴田が振り返ると、琉玄は先ほどと変わらぬ穏やかな顔で見つめていた。
「油断するでないぞ」
「心得ております」
柴田は再び深く一礼し、静かに部屋を後にした。
足音が遠ざかると、部屋には静寂が戻った。
琉玄は一人、揺れる灯火を黙って見つめていた。
――次話冒頭――
朝の光が、青峰館の館下町を照らしていた。




