30.真夜中の訪問者
お風呂のあとリビングに戻ってみるとスープはまだ残っていた。フェルくんはまだ部屋の中にいるだろう。
少し時間も遅くなってきた。この様子なら、このまま朝まで寝ているのだろうか。
スープはもう冷え切っていた。もう食べてはもらえないのかもしれない。
食べてもらえなかったのは残念だったけど、でも仕方ない。間に合えば明日の朝、また温めましょう。
そうだ。忘れずにフェルくんの外套の手入れをしておかないと。
玄関にいってフェルくんの外套を手にすると、ちくちくと破れた部分を縫っていく。少しの手入れで十分にまだ使えそうだ。
縫い終わったら、また外套かけに戻しておく。
「これでフェルくん、少しは快適に帰れるかな」
つぶやいて、でも自分の台詞に息が止まるように感じた。
フェルくんはいつかは家に帰ってしまう。そのことは理解している。
だけど感情はまだ追いついていない。
「フェルくん……」
彼の名前を呼んで、ふと裁縫箱に残していた刺繍を入れたハンカチへと目をやった。
切れ目のない結び目の刺繍は永遠を意味する。
でも永遠なんてどこにもないことは、私がいちばんよく知っている。
フェルくんに手渡そうと思っていた。
でもさっきはドアをノックしても返事もなかった。
もう眠っているのかもしれない。
それなら。
ポケットの中にハンカチを忍ばせる。
ひといきだけ、大きく息を吐き出す。
緊張の糸が解けたような気がした。
あとは自室に戻って、寝衣に着替える。
白い寝衣を着ると、どこか違う私になったような気もする。
三つ編みをほどくと、編み込んだあとが残って自然と髪がなだらかにウェーブしていた。三つ編みをすると、どうしてもあとが残ってしまうのが残念だ。
でもよく考えると、今日はフェルくんは寝ているのだから、お風呂からあがったあとにもういちど三つ編みをすることもなかった。
そもそもいつもの私だったら、お風呂のあとに三つ編みをしたりすることもなかったはずだ。もう寝るだけなのだから。
どうしてかはわざわざそんなことをしていたかはわからなかったけど、考えてもわからなかったので気にしないことにする。
そろそろゆっくり眠ろう。
そう思うのだけど、でもなかなか寝付けなかった。
ぱらぱらとふり続ける雨の音だけが、私の静かな世界に入り込んできていた。
小さなランプの灯がぼんやりと部屋の中を照らしている。
火を消すべきかなと思いつつも、なんとなく明かりをつけたままでいた。そもそも残りの油の量からすればあと三十分も持たないだろう。もう油が切れるまで点灯したままでいいかもしれない。
目を閉じる。
なんとなく昔のことを思い出す。
前の人生でもいろいろなことがあったはず。でも私は魔法と精霊と使い魔と名前と年齢と死んだ理由と、大切なこと。それだけしか覚えていない。
だから昔のことで思い出すのはあまり良い記憶ではないことが多い。
いま思い出したのは、前世の死に方。
できればあんな死に方はもうしたくないと思った。
だけど魔女に限らず、誰しも普通は死に方なんて選ぶことはできない。
もしも自分で死に方を選べるのだとしたら、それは幸せなことかもしれない。
その瞬間だった。
警戒の魔法に反応がある。誰かがこの部屋に近づいてきている。
同時にルナから慌てた声で念話が入ってくる。
『ステラ! そっちにフェルが向かっている。注意しろ』
ルナの声で近づいてきているのが、フェルくんだとわかった。
いや言われなくても本当はわかっていた。
私はルナには何も応えない。何も言う必要はないと思った。
私の部屋の扉がゆっくりと開かれる。きしむ音を立てないようにか、時間をかけて開かれていく。
扉の影からフェルくんが私の部屋の中へと入ってくるのがわかる。
その手にナイフを持っていることも、すぐに気が付いて、少しだけ息を飲み込む。
魔女の目は、まぶたを閉じていたとしてもすぐ近くくらいなら見ようと思えば見られる。だから今寝たふりをしていても、フェルくんの姿は見て取れた。
『いまボクもそっちにいく。だからキミも早く目覚めるんだ』
ルナの慌てた声。応えないから私が眠っていると思っているのかもしれない。
だから私ははっきりと告げていた。
『こなくていい。ルナはそっちにいて』
『起きていたのか。それなら、はやく身体を起こすんだ』
少しだけ安心したのか、ルナの吐息の音が聞こえてくる。
だけど私はルナの指示に従うつもりはなかった。
『いいよ。大丈夫。だってもしも殺されたとしても、フェルくんの役に立つでしょう。金貨一枚に変わるのも悪くない』
軽い口調で告げた私に、ルナは心底驚いた声を上げる。
『ばかな。なんで』
だけど私はこれ以上はルナの言葉を聞くつもりはなかった。
『いいから。邪魔しないで。来ちゃだめだからね』
私は一方的に念話を切る。
使い魔は最終的には主人の意向を否定できないから、ルナはもうこの部屋にくることはできない。
これでフェルくんと二人きりだね、なんてくだらないことを思う。
フェルくんは少しずつ。本当にゆっくりと私のベッドの近くまで、忍ぶように歩く。
音を立てないように、私を起こさないように慎重に。
実際は起きていて寝たふりなんだけどね。なんだかおかしくなって、ちょっと笑いがこぼれそうなところを我慢するのが大変だった。
そうこうしているうちに、フェルくんは私のベッドのすぐそばまでやってくる。
手にした銀色に輝くナイフの刃を、私に向けていた。
私が宵闇の魔女だと気が付いて、魔女を殺しに来たのだろう。
私の命でフェルくんの家族が救われる。それでフェルくんが喜ぶ。
考えてみただけで、それはなんて素敵なことなんだろうと思った。
私はただステラとしての人生は終わり、もういちど新しい人生が始まるだけだ。
誰も困らない。これですべてが丸く収まるのだから、悪くない。
私自身で死に方を選べるのなら、こんな終わり方ならいいと思った。
だけどフェルくんは、私が願うナイフをつきたてる代わりに、小さな。本当に小さな声で、私へと話しかけてくる。




