49.
ちょうど、窓際の端の席が空いていた。そこに行くまでも、視線はやや気になったが、誰も彼に話しかける者はいない。理由は色々あるのだろうが、彼とはまだ知り合って浅い僕が一緒にいるのも影響しているのかもしれない。
席につくと、また彼は携帯電話で何か打ち始めた。僕は外を眺める。美しい中庭が広がっている、花々が咲いているそこには、患者と見舞いに来た家族らしき姿もあった。
その様子を何となく見ていると、また僕の携帯電話がそのバイブレータを鳴らした。予想通り、向かいの彼からだった。
『追放されたのは僕と健人だけ。千里はその日は非番で、問題の手術には関わっていなかったのと、当時ここは麻酔科医の数がギリギリだったから、という理由で、病院長直々に引き留められたんだよ。そこで、弟はここの病院に残る代わりに、病院長と一つの取引をしていたんだ。つい昨日知ったことなんだけど』
取引。また不穏な単語が画面上に踊る。しかも、こんな大病院の院長と。千里さんは三兄弟では一番まともそうに見えたが、やはり兄弟の血には逆らえないらしい。彼の方を見ると、微妙に口角を上げて、同じページに次のメッセージを送信してきた。
『僕と健人は、表向き、一番重い処分である除籍扱いになっている。でも実は、弟が提示した交換条件を病院長も飲んで、システム上では、除籍ではなくて、休職中の扱いになった。「万が一、僕たちがまた必要な事態になったらどうするんですか」って脅したそうでね。だから』
「……だから?」
僕はつい、その文面の最後の接続詞を声に出しながら、その人の方を見た。また彼は、唇に右手の人差し指を当て、それからその手を、着たままだった上着の中に入れた。そこから何か出す動作をする、その胸の合間からちらりと見えたものは。
――それ、大丈夫なんですか?
彼の顔写真、それに、彼の旧姓である「奥村」から始まる名前――奥村昌志、それと、呼吸器外科医、の文字が印字されたカード。その右上には、この病院の名前。その物体は、すなわち。
僕が、しかと確認した、という意味で一つうなずくと、彼はまたカードを上着の中に隠してしまった。
『健人が退院するまで、という条件付きだけどね。万が一の時は動くかもしれない』
また彼が、嫌な笑みを浮かべたところで、ステーキランチのできあがりを知らせるベルが鳴った。
彼が言ったことは正しかった。確かに、あのステーキは美味なこと、この上なかった。こんなところで提供しているのがもったいない、と思う程度には。
食後、健人のところに行くという昌志さんと一旦別れ、愛香のところに向かうと、すぐに看護師がやってきて、二時頃に医者は来る、ということだった。健人も術後の経過が順調なため、集中治療室を出て一般病棟に移った、と昌志さんから連絡があった。僕は彼女の荷物をまとめ、また談話エリアに向かった。二人がもう来ていた。昌志が自動販売機で缶コーヒーを購入している、僕たちは窓辺で外の住宅街を眺める。
「今日は本当、いい天気ですね」
「ね、ほんと。あれ、愛香、もう退院するの?」
「この後手続きします。まだ医者が上がってこないので、それまでは」
「なるほどね。え、じゃあ、長野に先に帰っちゃう系?」
「いや、君が退院するまではいる。ホテル、押さえてるし」
「そりゃどうも」
健人はまだ、車椅子に点滴姿だったが、午前中には少し歩いて、心臓に負荷を掛けていくリハビリを始めたという。
「あの、この度は、本当にすみませんでした」
「いいっての。人生そういうこともあるって」
健人は、愛香が謝罪するのにけらけらと笑った。彼が言うと、特にその過去を知っている僕からすれば、妙に説得力があった。缶コーヒーを三つ持った昌志さんがやってくる。
「どうぞ、愛香さん、千春さん。熱いのでお気を付けて」
「あ、ありがとうございます」
「ああ、どうも」
「お兄ちゃん、オレのはー?」
「健人、カフェインには心拍数を上げる作用があることぐらい知ってるでしょ」
「たくさん飲んだ時だけでしょ。よーこーせ」
「だめです。お水と麦茶以外の飲み物の許可、まだ出ていないんだし」
愛香は、キャップ付きのそれを早速開け、一口、二口とゆっくり飲んで、その蓋を閉めた。僕は猫舌なので、開けるのは少し待つ。昌志さんは健人とあれこれ言っていて、まだそのキャップを回さない。
僕、愛香、車椅子の健人に、昌志さん。千里さんはあいにく捕まらなかったらしいが、それでも十分、平和な昼下がりだった。
兄との押し問答に折れたのか、はいはい、もういいよ、退院したら奢ってよ、と言う健人の声。兄弟がずっと一緒なら、これぐらいよくあることだな、と思いながら、その光景を見つつ、僕も缶コーヒーのキャップをひねろうとした。
と、その時、僕は、不思議な感覚を覚えた。
――ココニ、イテハ、アブナイ。
脳の中に、どこからか、男の声が直接吹き込まれるような感覚。五感が歪み、笑い合う三人の声が遠くから聞こえるようになる。
――ケレドモ、モウ、マニアワナイ。
開け放たれた窓の向こう、五階建ての茶色い壁のマンション。その五階の廊下に、全身黒ずくめの男が歩いているのが見えた。帽子を被っていた男は立ち止まり、こちらを向く。
――オマエ、ガ、イキナサイ……
マスクもしていたその男が、右手でズボンのポケットから何か出したその瞬間、僕は身体が勝手に動いていた。
『ズガァン! ズガァン!!』
住宅街に響き渡った、二発の銃声。ああ、この近くで、誰かが撃たれたのだろうか。
「水戸ちゃん!?」
「水戸さん!!」
「千春さん!」
僕の名前を呼ぶ声が、いくつも聞こえる。春眠暁を覚えず、とはよく言うが、秋の昼も、いい気候で眠くなる、それは何と表現するのだろうか。
「……お兄ちゃん、君とラストダンスを」
「……喜んで」
――サア、ブタイノ、マクハ、マモナク、オリル……
「――斉藤先生、至急オペ室を押さえてきて! 僕たちがやります!」




