47.
昌志さんは、夜の十一時になっても帰ってこなかったので、僕は先に寝てしまった。翌朝、午前六時半に自然に目が覚めると、酒臭さが部屋の中に漂っていた。健人の年齢からして、兄の彼は三十代半ばぐらいだろうが、その若々しい見た目にそぐわない、大きないびきも聞こえる。
――深酒したのだろうか。
彼の弟の一人、健人は、酒に弱かったが、お酒を飲む場それ自体は好きだ。そうであるならば、兄である彼も酒の席を好むのだろう。旧友と盛り上がったのなら、尚更に違いない。
僕は彼を起こさないように、身支度を済ませ、もう起きていた「みい」に朝食とミルクを与えた。
そっとカーテンを少しだけ開けると、外は秋晴れだった。もし今日、彼女が退院するとなれば、本来、こんな晴れやかな空のような気持ちになるのだろう。
だが、現実はそんなに甘くない。昨日、愛香の件についての話が一通り終わった後、彼女が僕の許可を得ず、勝手に婚姻届を出していたことについて、話が移った。何でも、僕たちの件を担当してくれている柿沢さん自身、以前交際していた女性と同じようなトラブルに遭ったことがあるという。
家庭裁判所で調停を行い、その調停の結果を役所に届け出るということ。もし警察にも被害を届ければ、彼女は刑法上の、有印私文書偽造という罪に問われ、懲役刑になる可能性があること。僕が訴えた場合、民事上の損害賠償責任も背負うことになる、ということ。
柿沢さんは、一連の流れを、紙に書きながら僕に説明してくれた。僕は一応、その説明を一通り聞いて、彼が書いてくれたメモも持ち帰ったが、電車に乗ってから、昌志さんは僕の考えを見透かしたかのように、僕に聞いてくるのであった。
「あんまりやりたくないんじゃないの? 婚姻無効の申し立て」
「……考えておく」
彼はそれ以上は聞いてこなかったが、彼女が罪に問われる可能性もある、ということを考えると、僕の脳裏からはその心配が離れなかった。
昌志さんが起きたのは、午前八時になってからだった。僕は空腹だったため、先に一人でバイキング形式の朝食を済ませていたが、部屋に戻ってくると、彼が二日酔いで頭痛を訴えているのだった。
「あー、久々に飲み過ぎた」
「……これが医者の不養生ですか」
「あ、言われちゃったか」
「言いたくもなりますよ」
まだ、ホテルの近くにある薬局は開いていなかったが、たまたま健人から預かっていた彼の私物の中に、頭痛持ちの彼がいつも持ち歩いている痛み止めが入っていた。今は彼と直接連絡が付く状態ではないが、やむを得ない。昌志さんは「後でちゃんと返す」と言って、一緒に入っていた胃薬と共に、その薬を飲んだ。
ちょうどその時、僕の携帯電話に着信があった。病院からだった。
「もしもし、野島です」
『おはようございます、アンドウ記念病院です。野島愛香さんの旦那さんの電話でよろしいでしょうか』
「はい、そうです」
『ありがとうございます。愛香さんの方ですが、本日退院できそうですので、念のため付き添いをお願いできますでしょうか』
「大丈夫です。何時頃行けばよいでしょうか」
『えーとですね、本来入退院の手続きは午前中のうちにしていただきたいのですが、退院後の通院や服薬について、主治医の方から説明がございまして、それに同席していただきたいのと、主治医の都合により、それが午後になりますが、よろしいでしょうか』
「分かりました」
これで一つは片付きそうだ。昌志さんは、ベッドから何とか起き上がっていた。
「私の妻の退院が決まりました」
「良かったじゃないの。迎えに行くの」
「付き添って、一緒に主治医から今後について話を聞いてくれ、だそうです。昼からになりますが」
「まあ、そうだろうね。自殺未遂だし、多分精神科のある病院に紹介状でも書くんじゃない?」
「だと思います。昌志さんは弟さんの見舞いに行かれますか」
「もちろん。ついでに元同僚にちょっかいでも出しに行こうかな。そうだ、病院の一番上にある食堂には行ったことあるかい?」
「いえ」
僕が首を振ると、彼はどこか懐かしそうな顔になった。
「あそこのステーキは一度食べた方がいい。僕も弟たちも大好きだったからね。何なら、僕が奢るよ」
「いえ、そこまでしなくても」
「僕が奢りたいの。僕も食べたい気分だしね。健人にはまだ食べさせてやれないのが残念だけど」
「……ありがとうございます」
まだホテルの朝食バイキングは開いていたので、着替えた昌志さんは、軽く食べてくる、とそこに向かった。「みい」は今朝は僕と遊ぶ気分ではないらしい、ホテルの三階の窓辺に佇んで、外の住宅街を眺めている。
昼食を病院で食べるのならば、ここを出るのはまだ先だろう。僕はここ二、三日ずっと、愛香や健人らのことについて考えていたので、少し気分転換しようと、携帯電話のゲームアプリを開いた。




