17.
僕があの、五月から六月になろうとする夜、彼の言ったことを理解するには、半日ほどの時間を必要とした。
鎌谷はその翌朝、高熱を出し、心配した彼女が、休日でも当番でやっている病院に彼を車で連れて行った。僕は二人が不在の間、台所の掃除をし、飼い主がいないことで暇そうにしていた猫の相手をした。仕事をしながら、僕は彼の台詞の真意を解析していた。
念のため、鎌谷は色々と検査を受けたそうだが、特に原因は見つからず、疲労が原因だろう、という診断を受け、解熱剤をもらって帰宅したのは昼過ぎ。僕は彼の看病をすると申し出たが、日曜日なので休んでください、と彼女に言われれば、それに逆らう理由は見つからなかった。
彼の隣にある自室に留まる気にもならず、作りかけのクロス・ステッチ刺繍の作品と、作業のために必要な道具一式を持って、客人用の部屋に入った。
作っていたのは、彼女が一番好きな花だという菖蒲だった。彼女は六月生まれで、この別荘の周囲の水場にもよく咲いているという。僕は花をプレゼントする、などという情緒は持ち合わせていなかったので、代わりに、僕を雇い、さらにこんな素敵な趣味を教えてくれた彼女に、作品で恩返ししよう、という気持ちで刺していた。
外は雨が降りそうな重苦しさだったが、自然の風を求めて、窓を半分ほど開けた。それから、刺繍の続きに取りかかる。
一針、一針、同じ色が何マスか続くエリアに彩りを加えながら、僕は彼の言葉を反芻した。
『僕は、あの女に惚れている』
今まで、恋愛感情などとは全く無縁の世界で生きてきた僕にとって、それは第一の衝撃だった。まさか、彼女に対して抱いていた一種の「痛み」が、恋愛感情だとは、思いも寄らなかったのだ。
だが、そう言われれば、彼女から同性愛者であると告白された後の、自分の落ち着きのなさにも説明がつく。彼女が僕に振り向かないと知って、僕は無自覚ながら失恋し、それに動揺していたのだ。
第二の衝撃は、もちろん、鎌谷も彼女に想いを寄せていたことである。しかし、これも、僕と同様の理由で玉砕。
確かに、これがもし、恋愛小説とか、少女漫画であれば、こうして誰が誰とも結ばれないと確定した時点で、それ以上のストーリーは描かれないだろう。これが、鎌谷が『ジ・エンド』と言った所以か。
それでも、現実という世界では、そう簡単にはストーリーを終わらせることはできない。僕たちが失恋しても、世界はいつも通り回るし、そのような理由で彼女の家政夫をやめる訳にもいかない。
今、手の中にある、作りかけの彼女への誕生日プレゼントは、ここで中断したり、布切りはさみでぐちゃぐちゃにして捨ててしまったりすることはできるが、僕はそのような気持ちにはならず、せっかくだから、と、仕上げて彼女に渡すことにした。僕の中では、それで一区切り付けることにした。
だが、人はこうも言う。何かの終わりは、何かの始まりでもある、と。
この回想録には、「相合傘」という題名を付けたが、現時点ではその題名が似合う話にはなっていないだろう。その傘が、通常使われる意味とは全く別の意味として成立するのは、実はこれから先の話なのである。




