15.
その後数日、僕はどうしてか、仕事にあまり集中できなかった。
料理をすれば、指を切り、鍋底を焦がし、水拭きロボットが通った直後の床を、そのことを忘れて裸足で歩いて滑って尻餅を付き、風呂掃除をすれば、カランと間違えてシャワーを出してしまい、午前中から全身がびしょ濡れになってしまった。
幸か不幸か、それらのらしくない失敗は、いずれも家主や家主の飼い猫に目撃されることは一度もなく、よって彼女に咎められることもなかった。
だが、見逃してくれない人ももちろんいる。
彼女のカミングアウトを受け入れてから、二回目の土曜日の夜、彼女とその愛猫が寝た後で、風呂から自室に戻ったところ、隣の部屋を使っている鎌谷が、僕の部屋に一つの紙袋を持って上がり込んできた。
「水戸ちゃーん」
「……その呼び方、やめてくれないか」
「えー、いいじゃん別に。ほら、明日休みだし、ちょっと晩酌しない?」
午後十時半、彼は既に酔っ払っているようなテンションの高さだが、あいにく今日は誰も夕食時に酒を飲んでいない。よって彼は間違いなく素面である。
「まあ、別に構わないが……その中身は」
「葡萄酒、と、チョコレート。今日、買い物に出たときに、ちょっといい店見つけて買ってみた」
赤ワインの中ぐらいのボトルには、信州産、と書いてあった。どうやら地元の品らしい。チョコレートは知らないブランドだったが、包装はいかにも高そうな感じがした。ここは彼の好意である、価格は聞かないでおくのがマナーだろう。
彼女の一家は、彼女も含めてお酒が大好きだという、当然のようにワイングラスがいくつかあった。それさえも、鎌谷は紙袋に忍ばせていた、僕は紙袋からグラスが出てきた時点で、ただ事ではない予感がしていた。
「じゃあ、半分ずつね」
「ん」
部屋には丸テーブルが一つ。鎌谷はそれにグラスを置き、コルク式ではなく金属キャップのワインの封を切った。注がれる赤い液体、僕はその深い赤をぼんやりと見ていた。
「乾杯!」
「乾杯」
ミディアムボディ、とボトルに書いてあったそれは、僕の舌にはちょうど良かった。美味しい、と鎌谷も言い、彼は丁寧に設えられたワインとワイングラスとは対照的に、テーブルの中央にやや乱雑に置かれたチョコレートの一粒に手を伸ばす。
「で、今日はどういう風の吹き回しなんだ」
僕は、突然の晩酌の意図を聞いてみることにした。この約三ヶ月余、彼女か鎌谷のどちらかに誘われて、夕食も入浴も済ませた後に、一杯を楽しみながら雑談をしたり、テレビの代わりに、パソコンで映画を楽しむようなことは月に二、三度あったが、何の提案もなしに、いきなり「飲もう」と準備を始められたのは初めてだったから、というのもある。
鎌谷はチョコレートの包みを剥がし、台形の形をしたそれを口に放り込んだところで、今までにない表情を見せた。それはまるで、心の芯を射貫かれているような心地にさせるもので。
「あ、裏があるって気付いちゃってる?」
「前に言っただろう、僕は勘で生きているところがあると。君が具体的に何を考えているかは分からないが、君の態度が『通常ではない』ことぐらいは容易に掴める」
「わあ、怖い怖い。超能力者かよ」
「それは違う。本当に超能力者であるなら、僕はこんなところに働きにきてやしない」
僕もまた一つ、別の丸いチョコレートを手に取った。口に含むと、ワインではない別のお酒の味がした。ボンボンか。
「そーおー? まあ、それはどうでもいいんだけどさ」
彼は一口、酒に口を付ける。それから、また表情を元に戻した。
「単刀直入に聞くよ。彼女のこと、好きなんでしょ?」
「……はい?」




