星が落ちる前(第9話)
星の海は、いつもより静かに揺れていた。
光の粒が無数に漂い、川のように流れ、時に渦を巻き、時に消えていく。
そのひとつひとつが、世界のどこかで生まれた願いであり、終わりであり、始まりだった。
星々の光は水面のように揺らぎ、遠くでは淡い雷鳴のような振動が響いている。星の海は、呼吸する巨大な生き物のように脈動していた。
私はその中心に立っていた。
白い羽が光を受けて揺れ、足元には星々の軌跡が流れている。
足元の光の川は、触れれば溶けてしまいそうなほど繊細で、けれど確かな温度を持っていた。
──星の運び手。
それが私の役目。
生まれた時から決まっていた、逃れられない使命。星は落ちる。落ちるべき場所へ。落ちるべき“器”へ。
私はその導きをする存在だった。
けれど、その夜は違った。
星の海の奥で、ひとつの光が震えていた。
他の星とは違う。色も、脈動も、温度も。
周囲の光がその星を避けるように流れ、まるでそこだけが別の世界のように歪んで見えた。
まるで──迷っているようだった。
「……呼んでる」
胸の奥がざわついた。
星が私を呼ぶことはない。運び手はあくまで“導く者”であり、星の意思に触れることは許されていない。
なのに、その星は私を見ていた。
光が揺れ、私の胸の奥に触れようとしていた。
触れられた瞬間、胸の奥が熱くなり、星の声が聞こえた気がした。
星の海のざわめきが一瞬止まり、世界が息を呑んだように静まり返る。
「……だめ。そんなの、聞こえるはずないのに」
星の海が震えた。
光が弾け、世界が歪む。星の川が逆流し、星々がざわめき、空間がきしむ。
遠くの光が砕け、粉雪のように散っていく。
その瞬間、私は理解した。
──この星は、落ちる。
そして、落ちる先は……まだ見ぬ“器”。
胸の奥が強く脈打った。
運び手としての本能が、強く、強く引かれていく。
「……行かなきゃ」
星の光が私の身体を包む。
羽が強く輝き、足元の星の川が渦を巻く。落下の準備。星の門が開く。
光の渦は風のように私の髪を揺らし、周囲の星々がざわめきながら距離を取った。
だが、その瞬間──闇が走った。
星の海の端が裂け、黒い影が滲み出す。
裂け目の向こうは底のない深淵で、そこから吹き出す冷気が星の光を鈍らせる。
赤い目がいくつも開き、私を見た。
「……狩人」
星を喰らう者。星の秩序を壊す存在。
闇は波のように広がり、星の海の光を飲み込んでいく。
なぜここに──?
考える暇はなかった。
星の光が私を包み、落下が始まる。星の海が遠ざかり、闇が迫る。
最後に見えたのは、狩人の赤い目。そして、震える星の光。
「……待ってて。必ず届けるから」
光が弾け、世界が反転した。
♢♢♢
落下の光が私を包み込むと同時に、星の海の音が遠ざかっていった。
星々の囁きも、光の流れも、すべてが薄くなり、代わりに重たい沈黙が押し寄せる。
周囲の空間は灰色の層を重ねたように曖昧で、上下の感覚すら失われていく。
──落ちていく。
身体が引き裂かれるような痛みはない。
けれど、世界そのものが私を拒むような圧力があった。
星の海は“上”にあり、地上は“下”にある。
その境界を越えることは、本来なら運び手でも滅多に許されない。
だからこそ、胸の奥の熱は異常だった。
星が私を引いている。落ちるべき場所へ、落ちるべき“器”へ。
「……そんなに急がなくてもいいのに」
呟いても、返事はない。星は言葉を持たない。けれど、確かに“意思”があった。
落下の風は存在しないはずなのに、髪が揺れ、羽が震える。
星の導きが、私の羽を震わせる。
その時──背後で、空間が裂ける音がした。
振り返ると、黒い影がいくつも滲み出していた。
裂け目の縁は赤く焼け、そこから漏れる闇は煙のように揺らめいている。
赤い目が、落下する私を見下ろしている。
「……しつこい」
狩人。
星を喰らう者。
星の秩序を壊す存在。
落下の最中に追ってくるなんて、普通ではありえない。
星の海と地上の境界は、狩人にとっても危険な場所のはずだ。
それでも──彼らは追ってきた。
星を狙っている。
私ではなく、私が運ぶ“星”を。
「来ないで」
羽を広げ、光を放つ。
落下の流れに逆らうように、光が後方へ伸びる。
光は尾を引き、闇を焼くように揺らめいた。
狩人の影が一瞬だけ揺らぎ、赤い目が細くなる。
だが、完全には消えない。
落下の速度が増す。星の門が近づき、地上の気配が、遠くに見え始める。
下方には黒い海のような夜空が広がり、その奥に微かな緑の匂いが漂っていた。
星の光が私の胸を叩いた。
「……わかったよ。急ぐから」
星の門が開く。
光が渦を巻き、私の身体を包み込む。
狩人の影が門の外で揺れ、赤い目がこちらを睨んでいた。
その視線は、まるでこう言っているようだった。
──逃がさない。
胸の奥が冷たくなる。でも、同時に熱が強く脈打つ。
星が震えている。
落ちる先に“器”がいる。その器は、星を受け入れる準備ができている。
いや──“空っぽ”だからこそ、受け入れられる。
「……どんな子なんだろう」
星の門が完全に開いた。光が弾け、世界が反転する。
次の瞬間、私は空へ放り出された。
夜空。
風。
重力。
星の海とは違う、冷たくて、荒々しい世界。
落下の速度が増し、森の匂いが近づく。
木々のざわめきが聞こえ、地上の気配が肌を刺す。
遠くで犬の遠吠えのような音が響き、地上の“生”の気配が濃くなる。
胸の奥の星が、強く光った。
「……ここだ」
光が尾を引き、森の奥へ落ちていく。
地面が迫り、木々が裂け、世界が白く染まる。
そして──私は落ちた。
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