ルミナの視点第1話(第10話)
衝撃のあと、世界は静かだった。
冷たい土の感触が背中に広がり、湿った森の匂いが胸の奥に刺さる。
土は夜露を吸って重く、ひんやりとした湿気が羽の根元まで染み込んでくる。
頭上では木々の枝が風に揺れ、葉が擦れ合う微かな音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
星の海とは違う。永遠でも、静謐でもない。重く、荒く、どこか痛い世界。空気はざらつき、呼吸をするたびに胸の奥に冷たい刃が触れるようだった。
──身体が動かない。
落下の影響で力が散り、羽の光は弱く揺れているだけだった。
羽先にまとわりつく地上の空気は重く、星の海のように私を支えてはくれない。
世界がぐらぐらと揺れて見え、視界の端で木々の影が波のように歪んだ。
その時──足音が聞こえた。
軽い。けれど、迷いのある足音。落ち葉を踏むたびに、かすかな湿り気が跳ねる音がした。恐怖と好奇心が混ざった歩き方。
「……だいじょうぶ……ですか?」
その声が、暗闇に差し込む光のように聞こえた。
森の冷気を震わせるほど小さな声なのに、私の耳にははっきり届いた。
私はゆっくりとまぶたを動かす。
重い。
けれど、声に引かれるように目を開けた。
夜の光を受けて揺れる髪。怯えた瞳。その少女が、私を覗き込んでいた。
松明の光が届かない森の奥で、彼女の瞳だけが星のように微かに光っていた。
──人間。
地上の存在。
星の海から見下ろすだけだった“遠い世界”の住人。
起き上がろうとすると、身体がふらついた。視界が白く弾け、森の影がぐにゃりと歪む。
少女──キーリが慌てて手を伸ばす。
「わっ……!」
私はその手に触れ、ようやく身体を起こすことができた。彼女の手は小さく、温かく、地上の“生”の匂いがした。
羽が弱く光り、夜気に溶けていく。
「……落ちたばかりだから、力が安定していない」
自分でも驚くほど、声がかすれていた。
地上の空気は喉に重く絡みつき、言葉を押し返してくる。
キーリは不安そうに私を見つめていた。
その瞳の奥に、微かな“空白”が見えた。
魔力の流れも、星の残滓も、何もない。けれど、その空白はただの欠落ではなかった。
──入る場所。
胸の奥の星が、微かに震えた。
森の静寂の中で、その震えだけが確かな音を持っていた。
「……あなた、どうしてそんなに空っぽなの?」
思わず口にすると、キーリは驚いたように目を見開いた。
その反応が、少し可愛かった。
でも、私はまだ確信していなかった。星の器かどうかは、まだわからない。ただ、胸の奥の星が彼女に反応しているのは確かだった。
その時──森の奥で、空気が揺れた。
冷たい。重い。星の光を嫌う気配。木々の間に黒い霧が滲み、夜風が一瞬止まった。
私は息を呑んだ。
「……来た」
狩人の気配。落下の直前に見た、あの赤い目。
けれど、私は弱っている。羽を出せば倒れる。光を放てば、すぐに力が尽きる。
影が木々の間から滲み出し、赤い目がこちらを見た。
その目は、森の闇よりも深く、冷たく、飢えていた。
キーリが震える。でも、逃げない。足は震えているのに、視線だけは逸らさなかった。
その姿が、胸を締めつけた。
「下がって」
私はかろうじて光を放つ。
弱い光でも、森の闇を裂くように広がった。影が揺れ、後退する。だが、すぐにまた迫ってくる。
狩人は、星を狙っている。
私ではなく──キーリの胸の奥に眠る“何か”を。
その瞬間、キーリの胸が光った。
「……え?」
星の紋章。
星の器にしか現れない印。光は脈動し、森の影を押し返すように広がった。
狩人が怯えた。赤い目が揺れ、影が後退する。
森の空気が震え、木々の葉がざわめいた。
そして──キーリが星を呼んだ。
光が空へ伸び、夜空の星がひとつ強く輝く。
その光が地上へ落ち、森全体が白く染まった。
風が巻き起こり、落ち葉が舞い上がる。
狩人が叫び、光に飲まれて消えていく。
私は息を呑んだ。
──この子が。
胸の奥の星が、確信を持って脈打った。
光が収まった時、森は静まり返っていた。ただ夜風だけが木々を揺らし、光の余韻が空気に残っていた。
狩人の影は跡形もなく消え、森の匂いがゆっくりと戻ってくる。
私はしばらくその場に座り込んだまま、胸の奥の鼓動を感じていた。
──星が応えた。
キーリの胸に現れた紋章。
星の器にしか現れない印。
そして、星の光を呼び、狩人を消し去った力。
間違いない。
この子が“器”。
星の海で震えていた光が求めていた場所。
落ちるべき先。導くべき存在。
胸の奥の星が、静かに、しかし確かに脈打っていた。
「……あなた、やっぱり空っぽじゃない」
思わず口にすると、キーリは困惑したように眉を寄せた。
「空っぽって……どういう意味?」
「うまく言えないけど……入る場所、って感じ」
キーリは余計に混乱した顔をした。
その反応が、なぜか胸を少しだけ温かくした。
私はゆっくりと立ち上がろうとしたが、足がふらついた。
視界が揺れ、森の影が二重に見える。キーリが慌てて支える。
「ちょ、ちょっと! 大丈夫?」
「……うん。落ちたばかりだから、まだ変な感じ」
地上の空気は重く、星の海のように身体を支えてくれない。
呼吸をするたびに胸が軋む。でも、キーリの手は温かかった。
その温かさが、星の海にはない“生”の感触だった。
私は彼女を見つめた。
怯えているのに、逃げなかった。
狩人の影に震えながら、それでも私のそばにいた。
星の光が溢れた時も、目を逸らさなかった。
──強い子。
星の器だからではない。ただ、心が強い。
胸の奥が少しだけ痛くなった。
「……あなた、名前は?」
「キーリ。あなたは?」
「ルミナ」
キーリは小さくうなずいた。
「ルミナ……助けてくれて、ありがとう」
その言葉に、胸の奥の星がまた脈打った。
星の導きとは違う、もっと柔らかい感情が広がる。
「助けたのは……あなたの方だよ」
キーリは目を瞬かせた。
「え?」
「星を呼んだのは、あなた。私は……ほとんど動けなかった」
キーリは自分の胸に手を当て、困惑したように俯いた。
「……わからない。何が起きたのか」
「大丈夫。ゆっくりでいい」
私はそう言いながら、彼女の横顔を見つめた。
星の海では感じたことのない、奇妙な感覚。
使命とも、義務とも違う。ただ、この子を見ていたいと思った。
その時──遠くから松明の光が揺れながら近づいてきた。
村人たちの声。ざわめき。恐怖と混乱の気配。松明の火が木々の影を大きく揺らし、森がざわつき始める。
私は息を呑んだ。
「……まずい」
「村の人たちだよ」
キーリの声は震えていた。
狩人の影よりも、人の視線の方が怖い──そんな気配が伝わってくる。
私は彼女の手をそっと握った。
「大丈夫。私がいる」
その言葉が、自分でも驚くほど自然に出た。
星の導きだけじゃない。私はこの子を守りたいと思った。
星の運び手として。そして、それ以上に。
夜風が吹き、森の匂いが濃くなる。
松明の光が近づき、二人の影が地面に伸びた。
私は小さく息を吸った。
「行こう、キーリ」
星の海から落ちた理由が、ようやく形になり始めていた。
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