お前は何を選ぶ(第77話)
観測機構の最深部へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
冷たいだけではない。肌の表面を細い針でなぞられるような、乾いたざらつきが混じっている。
薄暗い通路の壁面には、星文明の文字が淡く光を放っていた。
だがその輝きは均一ではなく、ところどころ黒い染みが広がり、まるで光そのものが腐食しているように見える。
壁の奥からは、かすかな脈動が伝わってきた。生き物の鼓動とは違う、冷たい機械のような、しかしどこか湿った気配。
ミナは肩をすくめ、腕を抱え込むようにして周囲を見回した。
「嫌な感じがするね」
声は震えていないが、目の奥に不安が滲んでいる。
「そうですね。灰化の濃度が上がっています」
リディアの表情は険しく、眉間に深い皺が刻まれていた。彼女はこの空気の変化を、誰よりも敏感に感じ取っている。
キーリは壁にそっと触れた。
ひんやりとした感触の奥で、何かがゆっくりと蠢いている。
それは生き物のようでもあり、死の気配そのもののようでもあった。
「この先が第四封印区画か」
「おそらく、そうです」
レオンは剣の柄に手を添え、いつでも抜けるように身構えた。
その横顔には緊張と、わずかな焦りが浮かんでいる。
第三封印が破壊されたことで、第四封印への侵食は急激に進行している。
もしここも破壊されれば、何が起きるのか──誰にも分からない。
その不確かさが、全員の胸に重くのしかかっていた。
ただ一人、オリオンだけが違う表情をしていた。彼は通路の奥を見つめ、何かを思い出すような、あるいは覚悟を固めるような静かな目をしている。
「オリオン」
キーリが問いかける。
「なんでしょう」
「第四封印には何が封じられているの」
「……言えません」
柔らかい声だが、その奥に固い意志がある。
「またそれか」
カイトが肩を落とす。
「教えてくれてもいいだろ」
「今のあなた達には、まだ早いのです」
「早いって何だよ」
「知る資格は、力によって証明されます」
淡々とした口調だが、どこか優しさが滲んでいた。
それが逆に、誰も反論できなくなる。
オリオンは視線を通路の奥へ向ける。その目は、暗闇の向こうに何かを見ているようだった。
「ですが、一つだけ言えます」
「何?」
「星の文明が最も恐れたものは、黒星ではありません」
その言葉は、通路の冷たい空気よりも重く響いた。
「それって、セレスが言っていた言葉と……」
「ええ。同じです」
ルミナが小さく呟く。
「本当に恐ろしいものは別にあるってことだよね」
「そうです」
「それが灰化なの?」
「それも違います」
「じゃあ何なんだ」
レオンの問いに、オリオンは静かに首を横に振った。
「今はまだ話せません」
その表情は、ほんの少しだけ曇っていた。
言えない理由がある──それを誰もが感じ取った。
「おいおい、伏線ばかり増えていくな」
カイトが苦笑するが、その笑いは強張っている。
「でも、嫌な予感しかしないよ」
ミナの声は小さく震えていた。
誰も否定できなかった。
──ピシッ。
乾いた音が通路に響く。
「何だ?」
次の瞬間、壁面の星の文明文字が一斉に灰色へと変色した。
「これは!」
「灰化だ!」
リディアが叫ぶ。
文字が崩れ落ちるように灰へと変わり、その灰が宙へ舞い上がる。まるで重力を失ったかのように、ふわりと漂いながら集まり始めた。
灰は意思を持つかのように寄り集まり、一つの人影を形作っていく。
「魔物か!?」
「違う!」
ルミナが青ざめた表情で叫ぶ。
「生きてない!」
その言葉に、全員の背筋が凍りついた。
灰色の人影はゆっくりと顔を上げる。顔がない。目も口も存在しない。ただ灰だけで作られた、人型の怪物。
「これが灰化の……」
「新しい脅威です」
オリオンが静かに告げる。
「灰人形です」
「灰人形?」
「灰化によって生まれる存在です。星の力も生命も喰らい、己を増殖させます」
「増殖だって?」
「一体を長く放置すれば百になります」
淡々とした説明だが、その内容は恐ろしく重い。
「笑えない冗談だな!」
カイトが短剣を抜く。
その瞬間、灰人形が地面を蹴った。
「速い!」
灰色の影がキーリへ向かって一直線に突撃する。
「キーリ!」
「分かってる!」
星剣を抜き放つ。
「流星斬!」
蒼白い斬撃が灰人形を真っ二つに切り裂く。だが、斬り裂かれた灰が再び集まり、身体を再生させた。
「再生した!?」
「物理攻撃への耐性が高い!」
「なら!」
ルミナが両手を掲げる。
「光よ、穿て! ライトランス!」
黄金の光が灰人形を貫いた。
「ギィィィィッ!!!」
初めて悲鳴のような音が響く。
灰人形の身体が崩れ落ち、そのまま消滅した。
「光魔法が効く!」
「黒星と同じか」
「完全に同じではありません」
オリオンが首を振る。
「灰化は黒星とは異なります。ただ、光の力が有効である点だけは共通しています」
「やっぱり別物なんだね」
「そうです」
その時、キーリの胸元にある星が淡く輝いた。
『適合反応確認』
「!」
『灰化侵食領域を確認』
『共鳴率上昇条件を満たしました』
「何!?」
『星との共鳴を開始します』
星の光が身体を包み込む。
暖かい力が身体の奥から溢れ出す。
『共鳴率十五・七%』
『第一管理権限の適応範囲を拡張します』
『第四封印への接続率上昇』
「少しだけだけど、共鳴率が上がった!」
ルミナが安堵の息をつく。
「どういうことだ?」
「分かりません。でも、この場所が関係しているみたいです」
オリオンは目を細め、何かを確かめるようにキーリを見つめた。
「やはり星は、あなたを選び始めています」
「選ぶ?」
「いずれ分かります」
柔らかい声だが、その奥に深い意味が潜んでいる。
その時、通路の最奥から淡い光が漏れ始めた。
「あれは」
「記録庫です」
「また記録が残ってるのか?」
「ええ。ですが、おそらく今までとは違います」
「何が違うんだ?」
「第二封印核についての記録です」
「!!!」
全員の表情が変わる。
「第二封印核の……」
「伏線くらいは見つかるかもしれません」
オリオンはゆっくりと歩き出す。
「そして、その記録には」
「何がある?」
オリオンは一瞬だけ立ち止まり、静かに告げた。
「もし第二封印核が目覚めた時、あなた達は選ばなければなりません」
「何を」
「世界か、星か」
その言葉に、キーリの脳裏へ一つの言葉が蘇る。
──『星の器よ、世界を選べ』
セレスの言葉。ラグナの言葉。そして今、再び告げられた同じ意味を持つ言葉。
その先に何が待っているのか。まだ誰も知らない。
だが、一つだけ確かなことがあった。第四封印区画には、世界の真実へ繋がる新たな記録が眠っている。
そして遥か遠く、誰にも聞こえない場所で、一人の男が静かに呟いていた。
「……もうすぐだ」
黒い霧に包まれた玉座。
その男の顔は見えない。
「星の器よ。お前は何を選ぶ。世界か。それとも──」
言葉はそこで途切れ、黒霧だけが不気味に揺らいでいた。
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