最後の観測施設(第62話)
重い扉をくぐると、空気が変わった。
外とは違う。冷たいのではない。空気が澄み切っている。
肌に触れる空気が、まるで夜空の下に立っているような静けさを帯びていた。
音が吸い込まれるように消え、足音さえも薄くなる。
誰もが自然と呼吸を浅くする。
この場所が、ただの地下空間ではないと本能が告げていた。
「……広い」
ミナが思わず声を漏らす。
その声が、やけに遠くへ響いていく。
目の前に広がっていたのは、巨大な円形の空間だった。
天井は見えない。どれほど高いのか、光が届かないほどの暗さが上空を覆っている。
壁は何層にも重なり、無数の通路が円を描くように続いていた。
まるで巨大な天文台の内部に迷い込んだようだった。
部屋の中央には、ひときわ大きな球体が浮かんでいた。
淡い青白い光を放つその球体は、ゆっくりと回転している。
周囲には小さな光の粒が幾つも浮かび、星々が球体の周りを巡っているように見えた。
光の粒は規則的に軌道を描き、時折尾を引いて流星のように軌跡を残す。
「これは……」
リディアは息を呑む。
その瞳は驚きと畏怖で揺れていた。
「星図……?」
「星図?」
カイトが首を傾げる。
だがその表情にも、言葉にできない圧倒が滲んでいた。
「世界中の星空を記録する装置です。文献では存在だけ語られていました。実物は初めて見ます」
キーリは球体へ近付く。
認証鍵が淡く輝いた。
すると球体も応えるように光を強める。
キィン──。
静かな音が部屋へ響いた。
空気が震え、足元の石床まで微かに共鳴する。
『認証を開始します』
機械的な声だった。
だが、不思議と冷たさは感じない。むしろ、長い眠りから目覚めた古い友のような温度があった。
『第二管理層』
『星の器を確認』
『管理権限を移譲します』
「管理権限……?」
キーリが呟く。
胸の奥がざわつく。自分が何か大きな流れに巻き込まれている──そんな感覚が強まる。
球体から一本の光が伸びる。
その先は認証鍵だった。鍵は宙へ浮かび、ゆっくりと回転を始める。
「キーリ!」
レオンが声を上げる。
兵士たちも身構える。
「大丈夫だと思う」
キーリ自身にも分かった。
敵意はない。むしろ歓迎されている。胸の星が微かに温かく脈打ち、光と共鳴しているのが分かる。
認証鍵は静かにキーリの手へ戻った。
同時に、壁一面へ古代文字が浮かび上がる。
淡い光が走り、壁が生き物のように情報を描き出す。
キーリは自然と読み始めていた。
「観測施設……正常稼働率……二十三パーセント」
「第二管理層……維持成功」
「上層施設……停止」
リディアが驚く。
「そんな細かい内容まで読めるんですか」
「うん」
キーリも不思議だった。
前よりも文字が理解できる。いや──頭へ直接意味が流れ込んでくる感覚だった。
まるで誰かがそっと耳元で説明しているように。
その時だった。
ドクン。
胸の星が脈打つ。
視界が一瞬だけ揺れ、球体の中心へ視線が吸い寄せられる。
そこには、一枚の透明な板が浮かんでいた。
『管理者呼出』
キーリが文字を口にした瞬間だった。
部屋全体へ光が走る。
青白い粒子が一点へ集まり始める。
空気が震え、髪がふわりと浮く。
「また何か出るぞ」
カイトが短剣を構える。兵士たちも剣を抜いた。
緊張が部屋を満たす。光は次第に人の形を作っていく。
足。
腕。
胴体。
そして顔。
白い長髪を後ろで束ねた老人だった。
長い外套を纏い、一本の杖を持っている。その姿は透けていた。実体ではない。光そのものだった。
老人はゆっくり目を開く。青い瞳がキーリを映した。
「……長かった」
その一言に、どこか安堵が滲んでいた。
長い孤独の果てに、ようやく訪れた来訪者を迎えるような声音だった。
誰も動けない。
空気が張り詰め、誰かが息を飲む音さえ響く。
老人は周囲を見回す。
王国軍。リディア。ルミナ。そして最後にキーリを見る。
静かに一礼した。
「ようこそ。北天観測区画へ。星の器」
キーリは息を呑む。
胸の奥が熱くなる。
自分が呼ばれた──そんな確信があった。
「私を知ってるの?」
老人は微笑む。
「もちろんです。あなたを待っていました」
その言葉は、重く、深く響いた。
キーリの背筋が震える。
待っていた──誰が?
何のために?
老人はゆっくり頷く。
「私はこの施設の管理者。アストラ観測管理人格。識別名──オリオン」
リディアが思わず前へ出た。
「人格……? まさか、星文明は人格保存技術まで……」
老人──オリオンは静かに首を横へ振る。
「私は生者ではありません。記録です。施設に保存された管理人格。役目を終えるまで消えることはありません」
ガルドが腕を組む。
「つまり幽霊ではない、と」
「その認識で構いません」
オリオンは穏やかに答えた。
敵意はまるで感じない。むしろ長い間、誰かを待ち続けていた者のようだった。
「まず一つ、お伝えしなければなりません」
オリオンの表情が少しだけ曇る。
その変化に、場の空気がさらに静まる。
「皆さんは、この場所を遺跡と呼んでいます。ですが、ここは遺跡ではありません」
部屋が静まり返る。
誰もが次の言葉を待った。オリオンは中央の球体を見上げた。その瞳は深い哀しみと誇りを宿していた。
「ここは今もなお稼働を続ける、星の文明最後の観測施設です」
その言葉に、誰も息をすることさえ忘れていた。




