北を見つめる(第58話)
風が、乾いた草原を撫でるように通り抜けた。
その風は、遠い山脈から吹き下ろされた冷たさをわずかに含み、肌に触れるたびに砂粒をひとつまみ運んでくる。
草の葉が擦れ合う微かな音だけが、沈黙の裂け目に流れ込み、場の空気をかすかに震わせた。
「第三の星……?」
ミナの呟きは、風にさらわれてしまいそうなほど弱かった。
その声が消えていくのを、誰も止められない。
返事を探すより先に、胸の奥で冷たいざわめきが広がっていく。
草原の向こうで、雲の影がゆっくりと形を変え、まるで何かが近づいてくる前触れのように見えた。
少女は、そんな空気を理解していないように首を傾げた。
曇りのない瞳が、ただ純粋に不思議を映している。
その無垢さが、逆に場の緊張を際立たせた。
風が少女の髪を揺らし、光を受けて淡くきらめく。
「知らないの?」
「知らねぇよ!」
カイトが反射的に声を張る。
その声は荒々しいのに、どこか震えていた。
恐怖を押し隠すための強さだと、誰もが気づいていた。
彼の拳は、気づかぬうちに固く握られ、指先が白くなっている。
「そんなもん初耳だ!」
少女は瞬きを一つ。
「でも本当にあるよ?」
その無邪気な断言が、胸の奥を冷たく締めつける。
嘘をついている気配がまったくない。
だからこそ、怖い。
草原の空気が、ひと呼吸ぶんだけ重く沈んだ。
リディアが慎重に口を開く。
「誰から聞いたの?」
「分からない」
「夢で?」
「たぶん」
曖昧な返答。
だがキーリの心だけは、曖昧ではいられなかった。
灰色の光。第三の星。北へ来い。
夢の中で聞いた声が、少女の言葉と重なっていく。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
風が草原を渡るたび、夢の残滓が現実に滲み出してくるようだった。
レオンが低く呼ぶ。
「キーリ。どう思う」
皆の視線が集まる。
その重さが、胸を少しだけ締めつけた。
遠くで鳥が一羽、短く鳴いて飛び立つ。
その羽音さえ、場の緊張を際立たせた。
「……分からない」
正直に言うしかなかった。
「でも無関係じゃない……と思う」
腕の痕が、ひりりと疼く。
夢の中で触れた灰色の光が、脳裏に再び浮かぶ。
その冷たさは、今も皮膚の下に残っている気がした。
『器は一人ではない』
キーリは少女を見る。
少女は、まるでそれを知っているかのように静かに見返してきた。
瞳の奥に、年齢に似合わない深さが揺れている。
「君、私を知っていたよね」
少女は迷いなく頷く。
「うん」
「どこで知ったの?」
「夢」
また夢。
だがその声には、曖昧さとは違う、確信めいた響きがあった。
風が少女の足元の草を揺らし、影が細かく震える。
「夢の中で、ずっと探してた」
ルミナの目が細くなる。
その瞳は、少女の言葉の裏側まで見通そうとしていた。
彼女の髪が風に流れ、影が頬に落ちる。
「何を探してたの」
少女は迷いなくキーリを指差す。
「器」
空気が止まった。
草原の音が、まるで世界から消えたように感じられた。
キーリの心臓も、一瞬だけ動きを忘れた。
「……私を?」
少女は首を振る。
「違う」
その一言が、胸の奥に冷たい穴を開ける。
風がその穴の中を通り抜けるように、ぞくりとした寒気が走った。
「もう一人の方」
誰も理解できない。
だがキーリだけは違った。
夢の最後に聞いた声が、耳の奥で蘇る。
『器は一人ではない』
まさか。
「待って……」
胸がざわつく。
心臓が、何かを予感して早鐘を打ち始める。
草原の向こうで、雲が裂けるように光が差し込んだ。
「他にもいるの?」
少女はあっさり頷く。
「いるよ」
「どこに?」
「北」
その即答に、キーリとルミナが同時に顔を上げた。
北の空は、他の方角よりもわずかに暗く、雲が厚い。
まるで何かを隠しているようだった。
「北……」
「やっぱり」
ルミナが小さく呟く。
その声には、恐れと確信が混じっていた。
レオンが腕を組む。
「偶然とは思えんな」
ガルドの表情も険しくなる。
「調査の優先度が上がったな」
そのとき、兵士が砂を蹴り上げながら駆け寄ってきた。
肩で息をし、顔は青ざめている。
背後で砂粒が舞い、夕陽に照らされて赤く光った。
「ガルド隊長!」
「どうした」
兵士は喉を鳴らし、震える声で報告した。
「先行していた斥候隊から……北方の消失村で、生存者を発見しました」
「生存者?」
リディアが息を呑む。
「一人だけです。ですが……様子がおかしいのです」
「どういう意味だ」
兵士の唇が震える。
恐怖が、言葉の端々に滲んでいた。
彼の背後で風が強まり、草原がざわりと波打つ。
「その男は、何度聞いても同じことしか言わないそうです」
風が止まる。
空気が、重く沈んだ。
遠くの雲が、灰色に沈み始める。
ガルドが低く問う。
「何と言っている」
兵士は答えた。
「“門が開く”と」
その言葉が、胸の奥に冷たい刃のように刺さる。
キーリの指先がわずかに震えた。
兵士はさらに続ける。
「それと……空に、灰色の星が見えたと言っています」
キーリの背筋に、氷のような寒気が走った。
夢。灰色の光。第三の星。
すべてが一本の線になって繋がり始めている。
北の空を見れば、雲の隙間に淡い灰色の輝きが、確かに瞬いているように見えた。
少女は空を見上げた。
その横顔は、どこか寂しげだった。
風が彼女の頬を撫で、影が揺れる。
「間に合うかな……」
ミナが問う。
「何に?」
少女は答えない。
ただ北を見つめる。
遥か彼方、まだ誰も見たことのない遺跡の方向を。
その視線は、まるでそこに確かな何かが存在することを知っている者のものだった。
その視線の先で、何かが待っている。
星でもない、黒星でもない、第三の星。
そして、もう一人の器。
北への旅は、ただの調査ではなくなった。
世界の根幹へ近づく旅が、静かに幕を開けようとしていた。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




