星を知る少女(第56話)
夜の名残がまだ世界に貼りついている早朝。
野営地には薄い靄が漂い、草葉の先に宿った夜露が、かすかな光を受けて震えていた。
兵士たちが荷車を押すたび、湿った土が低く軋み、冷たい空気が彼らの吐息を白く染める。
カイトは肩をすくめ、眠気に負けたように大きなあくびをした。
「眠ぃ……」
その声は、まだ半分夢の中に沈んでいる。
「昨日まで死闘だったんだぞ」
レオンが呆れたように言うが、カイトは気にも留めない。
「眠いのは自業自得でしょ」
ミナが腰に手を当てて睨む。
その表情には呆れと、少しの心配が混じっていた。
「夜中まで兵士さんたちと飲んでたじゃん」
「交流だよ、交流」
「絶対違う。飲みたかっただけでしょ」
ミナの言葉に、カイトは肩をすくめるだけだった。
少し離れた場所では、レオンが地図を広げていた。
朝日がまだ弱く、紙の上の線が淡く揺れて見える。
ガルドは腕を組み、険しい顔でそれを覗き込む。彼の影は長く伸び、朝の光に切り取られていた。
「目的地までは三日」
ガルドの声は低く、湿った空気に重く響く。
「途中に補給村が一つある」
「消えた村は?」
「目的地周辺だ」
その言葉に、レオンの眉がわずかに動く。
“消えた村”という言葉は、旅の空気を一瞬で冷やす力を持っていた。
リディアが荷物を抱えて近づいてくる。
背負った袋の中で本の角がぶつかり合い、鈍い音を立てる。
「資料は全部持ったわ」
「相変わらず多いな」
カイトが引き気味に言う。
「荷物の半分、本じゃねぇか」
「必要なの」
リディアは即答した。
その目は真剣で、誰も反論できない。
ルミナは少し離れた場所で空を見上げていた。
朝の空は薄青く、雲がゆっくりと流れている。
風はまだ冷たく、彼女の髪を静かに揺らしていた。
「何見てるの?」
キーリが尋ねる。
「流れかな」
「またそれ?」
「またそれ」
キーリは苦笑する。
ルミナの言葉は抽象的で、しかしどこか核心を突いているように思えるようになってきた。
「出発するぞ!」
ガルドの声が野営地に響き、一行は北へ向かって歩き始めた。
森を抜けると、朝日が丘の向こうからゆっくりと昇り始めた。
光は木々の影を長く伸ばし、街道の砂利を金色に染める。
鳥の声が遠くで重なり、風が草原を撫でるたび、緑の波が静かに揺れた。
最初の一日は穏やかだった。
魔物の気配も薄く、風は柔らかく、空は高い。
歩くたびに靴底が砂利を踏む音が規則的に響き、旅のリズムを刻む。
「これくらい楽なら助かるんだけどな」
カイトが背伸びをする。
その仕草には、昨日の疲れがまだ残っていた。
「毎回遺跡で死にかけるし」
「フラグ立てるな」
レオンが即座に言った。
その瞬間──
ガサッ。
乾いた枝が踏まれたような音。
風の流れが止まり、空気が一気に張り詰める。
ミナは反射的にナイフを抜いた。
兵士たちも剣を構え、森の奥へ視線を向ける。
木々の影が揺れ、何かがそこに潜んでいる気配がした。
影がゆっくりと形を成す。
そして──出てきたのは、魔物ではなく少女だった。
十歳ほどの少女。
薄汚れた服、痩せた身体。
怯えた目は、まるで光を避けるように揺れている。
その姿は森の影と同化していて、まるで“そこにずっといた”かのようだった。
「子供?」
レオンが警戒しながら近づく。
少女は逃げない。ただ、じっと──キーリを見ていた。
その視線は、恐怖でも敵意でもない。
もっと深い、もっと奇妙な“確信”のようなもの。
「……私?」
キーリが首を傾げる。
少女は一歩前に出て、キーリに近づいた。
その足取りは弱々しいのに、迷いがなかった。
そして、小さな声で言った。
「やっと見つけた」
空気が止まる。
風も、鳥の声も、仲間の呼吸さえも。
「え……なんて?」
カイトが聞き返すが、少女はキーリから視線を外さない。
「待ってた」
その言葉が、キーリの胸に冷たい指を滑らせた。
ドクン。
腕の痕が反応する。
まるで、少女の言葉に呼応するように。
ドクン。
「……誰だ?」
少女は少し考え、そして言った。
「忘れた」
「え……?」
「名前。忘れた」
レオンが眉をひそめる。
「記憶喪失か?」
少女は首を傾げる。
「うん。たぶん」
曖昧な返事。
しかしその声には、どこか“確信”があった。
カイトが頭を抱え、ミナが肩を叩いて宥める。
そのとき、リディアが少女の首元に目を留めた。
「待って」
少女の首元に浮かぶ紋様。
それは──見覚えのある古代文字。
「それ……!」
リディアが息を呑む。
「星の文明の文字……!?」
全員が固まる。
少女は不思議そうに首元を触る。
「これ? ずっとあるよ」
リディアの顔色が変わる。
「そんなはず……生体刻印なんて、記録でしか……」
カイトが苦笑する。
「また厄介事の匂いしかしねぇぞ」
そのとき、ルミナが少女の前に立った。
風が止まり、空気が静まる。
森の影が濃くなったように感じられるほど。
ルミナは少女を見つめる。
少女もルミナを見る。
その目は──懐かしさを湛えていた。
数秒、十数秒。
そして、ルミナの表情が変わった。
驚愕。
普段の彼女からは想像できないほどの。
「……ありえない」
「何がだ?」
誰もが息を呑む中、少女は微笑んだ。
「久しぶり」
その一言で、空気が凍りついた。
ルミナは言葉を失う。
キーリたちは理解できない。
ただ一つだけ分かった。
この少女は、ただの迷子ではない。
北への旅は、静かに、しかし確実に、予想外の方向へと進み始めていた。
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