北方へ向かう(第55話)
キーリはしばらくその場で動けなかった。
胸の奥に冷たい波が広がり、足元の土がわずかに沈んだように感じた。夜気は静かすぎて、世界が自分だけを置き去りにしたようだった。
冷たい夜気が肌を撫でる。焚き火はすでに消え、灰の中に残った赤い点がかすかに呼吸しているように明滅していた。
夢──そう片付けるには、あまりにも鮮明だった。胸の奥にまだ白い残光が張り付いている。
「……北へ来い、って」
自分でも驚くほど小さな声だった。
腕の痕を見る。黒い痕は静かに沈んでいるが、まるで眠っているだけで、いつでも目を覚ましそうな気配があった。
「眠れないの?」
背後から声が落ちてきた。振り向くと、月明かりに照らされたルミナが立っていた。銀髪が夜風に揺れ、光を吸い込んで淡く輝いている。
「ごめん。起こしちゃった?」
「キーリ、顔色が悪いわよ」
「そうかな?」
「うん、悪い」
即答。
キーリは苦笑したが、その笑みは自分でも分かるほど弱かった。
「実はさ、夢を見たんだ」
ルミナの目がわずかに細くなる。
その変化は小さいのに、夜の静けさの中ではやけに鋭く感じられた。
「どんな夢だったの?」
キーリは迷った。胸の奥で何かが引き止める。だが隠しても意味がない──そんな直感が勝った。
白い光。黒い光。そして灰色の光。
北へ来い、と告げた声。
語るほどに、夢の残滓が現実へ滲み出してくるようだった。
話し終える頃には、空気が変わっていた。
ルミナは黙っている。珍しく、それも長く。
「ルミナ……何か知ってるの?」
キーリが問うと、ルミナは首を振った。
「知らないわ」
「本当に?」
「でも」
そこで言葉を切る。
夜風が二人の間をすり抜け、沈黙をさらに深くした。
「私も灰色は聞いたことがない」
キーリは眉をひそめる。
「星でも黒星でもない?」
「少なくとも私の知識にはない」
その言葉は、逆に重かった。
ルミナが知らない──それだけで、胸の奥に冷たいものが広がる。
「北は?」
「分からない」
再び沈黙。
だが次の言葉は予想外だった。
「でも行くことになる」
「何で?」
「たぶんだけどね」
ルミナは夜空を見上げた。星々が静かに瞬き、彼女の瞳に小さな光を落としている。
「流れが向いている」
「相変わらず説明が雑だね……」
「事実よ」
キーリはため息を吐く。
そのとき──背後から大きな声が響いた。
「おい! 起きてる奴は集まれ!」
ガルドだった。
まだ夜明け前の空は濃い藍色で、星の光が地面にまで届いている。仲間たちが次々とテントから顔を出す。
「なんだよ……」
カイトが眠そうに出てくる。
「朝じゃねぇぞ……」
「緊急だ」
ガルドの表情は焚き火の残り火よりも硬かった。
その一言で全員の眠気が吹き飛ぶ。レオンもすぐに近寄る。
「何があった」
「斥候が戻った」
ガルドは地図を広げる。紙の端が夜風に揺れ、かすかに音を立てた。
「北方だ」
キーリの心臓が跳ねた。
ドクン。
「北方?」
リディアが身を乗り出す。
「何か見つかったの?」
ガルドは頷く。
「古代遺跡だ」
場が静まり返る。
夜の冷気が一気に濃くなったように感じた。
「また遺跡かよ……」
カイトが頭を抱える。
「嫌な予感しかしねぇ」
「普通の遺跡じゃない」
ガルドの声は重い。
「周辺の村が消えている」
「……は?」
ミナが固まる。
「消えた?」
「住民がいない。争った跡もない。血痕もない」
ガルドは続ける。
「ただ空っぽになっていたらしい」
誰も言葉を発しない。
夜の静寂が、さらに深く沈んだ。
「黒星教団か?」
レオンが聞く。
「まだ不明だ」
ガルドは首を振る。
「だが調査隊が必要になる」
リディアが地図を覗き込む。
そして、顔色を変えた。
「……この場所」
「知ってるのか?」
レオンが聞く。
リディアは小さく頷いた。
「星文明の文献に名前だけ残っていた場所よ」
「名前は?」
ガルドが尋ねる。
リディアはゆっくり答えた。
「アストラ北天観測区画」
キーリの胸がざわつく。
聞いたことはないはずなのに、どこかが引っかかる。
夢の残光が、また胸の奥で揺れた。
「観測区画?」
「星文明時代の施設の一つ」
リディアは続ける。
「ただし記録がほとんど残ってない」
「つまり当たりだな」
カイトが嫌そうな顔をする。
「絶対ヤバい場所だ」
「否定できない」
リディアも苦笑した。
ガルドが全員を見る。
「王国は調査隊を編成する」
そして。
「お前たちにも同行を頼みたい」
レオンが仲間たちを見る。
誰も反対しない。今さら引き返せる場所にはいない。
「分かった」
レオンが頷く。
「行こう」
ガルドも頷く。
「出発は明日の朝だ」
会議はそこで終わった。
皆がテントに戻っていく。だが、キーリだけは動けなかった。
北方。古代遺跡。消えた村。
そして──夢の中の言葉。
──北へ来い
偶然とは思えなかった。
夜空を見上げると、星が静かに瞬いている。その中に、ほんの一瞬だけ灰色の光が混じった気がした。
気づいた時には消えていた。
だが、胸の奥で確かに何かが動き始めていた。
それは恐怖でも期待でもなく──ただ、抗えない流れの始まりだった。
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