何もない間(第53話)
戦いが終わった夜、一行は王国軍の野営地へ戻っていた。
ルグナ遺跡から少し離れた丘は、昼間の熱気をわずかに残しながらも、夜風がそれを静かに奪っていく。
草原は風に揺れ、焚き火の赤い光が草の一本一本を照らし、影を長く引きずらせていた。
焦げた木の匂い、湿った土の匂い、遠くで鳴く夜鳥の声──すべてが、戦いの喧騒とは別世界のようだった。
「生きて帰れただけで十分だな……」
カイトが地面に大の字になり、硬い土に背中を預ける。
その動作には、疲労というより“生存の実感”を確かめるような重さがあった。
「俺、三回くらい死んだと思った」
「実際は一回も死んでないでしょ」
ミナが笑う。
その笑いは明るいのに、どこか震えていた。
戦いの余韻がまだ体の奥に残っているのだ。
「気分の話だよ!」
「大げさなんだから」
レオンは少し離れた場所で剣を磨いていた。
刃に映る焚き火の光が揺れ、赤と影が彼の表情を交互に照らす。
その手つきはいつも通りだが、肩の力はわずかに抜けている。
戦いの緊張がようやく解け始めていた。
ガルドは王国軍の兵たちに報告をしている。
兵たちの顔には疲労と安堵が混じり、しかしその奥にわずかな警戒が残っていた。
ゼル撃破。遺跡制圧。黒星停止。
成果は大きい。
だが、夜風の冷たさがその達成感をどこか遠ざけていた。
「……妙ね」
リディアが手帳を閉じながら呟く。
焚き火の光が彼女の横顔を照らし、影が頬を滑る。
「何が?」
ミナが首を傾ける。
「黒星よ」
リディアは夜空を見上げた。
星々は静かに瞬いているのに、その光がどこか不穏に見えた。
「記録と違う部分が多すぎる」
「例えば?」
「種が残ったこと」
焚き火が大きく弾け、火花が夜に散った。
その一瞬、誰もが言葉を失う。
「星文明の記録だと、黒星はもっと単純な存在だった」
「でも実際は違った?」
「ええ。まるで成長していたみたいだった」
沈黙が落ちる。
風が草を揺らす音だけが、場を満たした。
ルミナは焚き火を見つめていた。
炎の奥、さらにその奥──誰にも見えない何かを見ているような目だった。
「ルミナ」
キーリが声をかける。
「何」
「お前、何か知ってるだろ」
ルミナはゆっくりと空を見上げた。
星の光が彼女の瞳に反射し、淡い光の粒が揺れた。
「……少しだけ」
「少し?」
カイトが起き上がる。
「その少しを話せよ」
ルミナは短く息を吸い、静かに言った。
「黒星は失敗作じゃない」
焚き火の音が止まったように感じた。
空気が一瞬、固まる。
「……は?」
ミナが聞き返す。
「失敗した星じゃない。少なくとも、最初は」
「待て」
レオンが顔を上げる。
その目は鋭いが、底に不安が揺れていた。
「それはどういう意味だ」
「今は言えない」
即答。
その声は、拒絶ではなく“まだ言えない”という重さを含んでいた。
「おい!」
カイトが抗議する。
「そこで止めるなよ!」
「言える段階じゃない」
ルミナはそれだけ言った。
キーリは眉をひそめる。
まただ。知っているのに、全部は言わない。
それがルミナだ。
「……まあいい」
レオンが話を切る。
「今は休め」
「賛成」
カイトが即答する。
「俺もう限界」
ミナも笑う。
「今日は寝よう!」
みんなが少しずつ散っていく。
焚き火は小さくなり、夜の冷たさが戻ってくる。
風が草を撫で、遠くの木々がざわめいた。
夜が深まる。
空は墨のように濃く、星々はその上に針で刺したように散らばっていた。
風は冷たく、肌を撫でるたびに戦いの記憶を呼び起こす。
野営地の灯りは遠くで揺れ、兵たちの声も次第に消えていく。
キーリだけが眠れなかった。
テントの外で一人、夜空を見上げる。
星の光は美しいはずなのに、胸の奥がざわついて落ち着かない。
静けさが逆に不気味だった。
腕を見る。
黒い痕が、まだ残っている。
薄くはなったが、消えてはいない。
まるで皮膚の下に何かが潜んでいるようだった。
「……お前、何なんだ」
呟いた声は夜に溶ける。
返事はない。
だが──
ドクン。
痕が脈打った。
「ッ!」
視界が揺れる。
星空が遠ざかり、地面が沈み、世界が傾く。
耳鳴りがし、体の感覚が指先から消えていく。
「な……!」
世界が黒く染まる。
気づくと、知らない場所に立っていた。
足元は闇。
空も闇。
上下の区別もなく、ただ“黒”だけが広がっている。
空気は冷たくも暖かくもなく、温度という概念が存在しないようだった。
音も風もない。
呼吸の音さえ吸い込まれていく。
その闇の中に──
遠くで白い光がひとつ、静かに浮かんでいた。
淡く揺れ、まるで呼吸しているように見える。
反対側には黒い光がひとつ。
白よりも濃く、闇よりも深い黒。
その中心だけが、わずかに輝いていた。
二つの光は、この空間の唯一の存在だった。
「ここは……」
声が闇に吸われる。
返事はない。
だが──白い光の方から声がした。
優しく、どこか懐かしい響き。
胸の奥をそっと撫でるような声。
──器よ
キーリが振り向く。
黒い光の方からも声がする。
冷たく、底の見えない声。
深海の底から響くような、重い声。
──器よ
同じ言葉。
なのに、意味はまるで違う。
白が言う。
──来い
黒も言う。
──来い
キーリは動けない。
足が地面に縫い付けられたようだった。
心臓が早鐘を打ち、喉が乾く。
「……夢なの?」
答えはない。
だが、白と黒の中央に──第三の光が現れた。
小さな灰色の光。白でも黒でもない、曖昧な色。しかし、その曖昧さが逆に不気味だった。
「……なんだ?」
その瞬間、白と黒が同時に揺れた。まるでその灰色を警戒しているように。
キーリの背筋に冷たいものが走る。灰色の光だけが、静かに近づいてくる。
ゆっくり、ゆっくりと。
その動きは迷いがなく、まるで──最初からキーリを探していたかのように。
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