新しい敵(第39話)
出発の朝。
アストラの城門前には薄い雲が垂れこめ、風が街路の砂を巻き上げていた。
空気は冷たく、胸の奥がざわつくような気配が漂っている。
キーリはその風の匂いを吸い込みながら、胸の星が微かに脈打つのを感じていた。
──何かが始まる。そんな予感が、言葉にならないまま心に沈む。
ミナが大きく伸びをし、肩を回す。
その表情には不安よりも期待が勝っていた。
「また旅だ。これからどんなことが起こるのかな、楽しみだ」
カイトは背負い袋の紐を引き締め、荷物を一つひとつ確認していた。
その動きはいつも通りだが、指先にはわずかな緊張が宿っている。
「今回の旅は長くなりそうだな。荷物は少し多めにしておいてよさそうだ」
レオンは地図を広げ、風に煽られないよう片手で押さえながら言う。
その目は冷静だが、眉間には深い皺が刻まれていた。
彼はこの旅が“ただの探索”では済まないことを、すでに察しているようだった。
「ルグナ遺跡は山の中だ。野営地点もあらかじめ頭に入れておかねば」
「ルグナ遺跡は、ここからどれくらいかかるの?」
キーリは胸の星のざわめきを誤魔化すように問いかけた。
「ざっと三日だ」
「本当に長旅になるんだね」
ルミナは空を見上げていた。
雲の切れ間から覗く光をじっと見つめ、その表情にはかすかな不安が滲んでいる。
「星が遠いわね。力をちゃんと使えるかしら」
「遠い?」
キーリが聞き返すと、ルミナは小さくうなずいた。
「この辺は星の力が弱いの。……嫌な感じがする」
リディアが顎に手を当てる。
「それはもしかしたら、地形の影響かも」
ガルドはすでに馬に跨り、王国軍の兵士たちも整列していた。
鎧の金属音が風に混じって響く。
その規律正しい音が、逆に緊張を高める。
「準備はできているか。そろそろ出発するぞ」
その一言で、隊列がゆっくりと動き出した。
キーリは歩きながら、胸の奥に沈む不安を振り払うように深く息を吸った。
♢♢♢
アストラを離れてしばらくは穏やかな平原が続いた。
だが進むにつれ、景色は徐々に荒々しさを増していく。
岩が転がり、木々はまばらになり、道は細く、足場は不安定になった。
ミナが顔をしかめる。
「歩きにくいわね。ゴツゴツして、足が痛い」
その声には、軽口の裏に小さな焦りが混じっていた。
「文句言うな。山なんてどこもこんなもんだろ」
カイトは笑って返すが、彼もまた周囲の気配に敏感になっているのがわかる。
レオンは周囲を鋭い目で見渡していた。
その視線は、何かを探すというより“何かが出るのを待っている”ようだった。
「この辺から危険だ。植物、生物、全てに注意しろ」
キーリは剣の柄にそっと手を添える。
胸の星が、また微かに震えた。
──嫌な予感がする。
その瞬間、ルミナが足を止めた。
「……敵が来る」
その声は震えていなかったが、瞳の奥に緊張が走っていた。
風が一瞬だけ止まり、空気が張り詰める。
キーリの心臓が一拍遅れて跳ねた。
次の瞬間──岩陰から影が飛び出した。
ガァァッ!!
ミナが叫ぶ。
「魔物だ!」
現れたのは岩狼。
身体は石のように硬く、目は赤く光り、喉の奥で低い唸りを響かせている。
五匹。
その足音だけで地面が震え、キーリの背筋に冷たいものが走った。
「任せろ」
カイトが前に出る。
その声は強気だが、握る短剣には汗が滲んでいた。
ミナもナイフを逆手に持ち、素早く間合いを詰める。
彼女の瞳には恐怖よりも“負けたくない”という強い意志が宿っていた。
「囲まれるな!」
レオンの声が飛ぶ。
岩狼たちが一斉に跳びかかった。
カイトは地を蹴り、影のように動く。
飛びかかってきた一匹の懐に潜り込み──
ザッ!
足を斬り裂く。
岩のような皮膚でも、関節は柔らかい。
カイトはその手応えに安堵しつつも、次の動きに備えて身を低くした。
ミナのナイフが風を切り、一直線に飛ぶ。
鋭い金属音とともに、一匹の目に突き刺さった。
ミナは息を呑みながらも、次のナイフを構える。
ルミナが詠唱し、光が弾ける。
眩い閃光が狼の動きを鈍らせた。
彼女の額には汗が滲み、星の力の弱さに苦しむように歯を食いしばっている。
キーリは剣を構え、胸の星が淡く光る。
その光は、恐怖を押し返すように温かかった。
「──星剣!」
光の刃が走り、岩狼の身体を真っ二つに裂いた。
石片が飛び散り、地面に転がる。
キーリはその光景に一瞬息を呑む。
──自分の力が、また強くなっている。
それが嬉しいのか、怖いのか、自分でもわからなかった。
数分後。
魔物はすべて倒れ、静寂が戻った。
「楽勝だね」
ミナは笑うが、その肩はわずかに震えていた。
「口だけは強いな」
カイトが軽口を叩くが、彼もまた緊張を隠せていない。
レオンは険しい表情のままだった。
「……妙だ」
「何が妙なの?」
キーリが聞くと、レオンは周囲を見渡した。
「魔物が少なすぎる」
その言葉に、キーリの胸がざわつく。
──何かがおかしい。
「多分、それは星が乱れてるからね」
ルミナの声は低く、どこか怯えていた。
「星に影響されてる?」
リディアが呟く。
その時──遠くの山の斜面から、黒い煙がゆらゆらと立ち上っているのが見えた。
「何あれ」
ミナが指をさす。
「火事か? それにしては変な場所だな」
カイトが目を細める。
「違う」
ガルドの声は低く重かった。
「あれは……」
レオンが言いかけた時、
「黒星……」
ルミナが小さく呟いた。
キーリの胸の星が、微かに震えるように反応した。
その震えは、まるで“逃げろ”と告げているようだった。
「先を急ぐぞ」
ガルドの命令で、隊列は速度を上げた。
♢♢♢
山道は険しさを増し、夕方には空が赤く染まり始めていた。
そして──ついに彼らは目的地を見た。
岩山の奥に、崩れた石造りの建物。
巨大な穴のような入り口が口を開けている。
周囲には黒い焦げ跡が広がり、地面は焼けただれ、熱の残滓がまだ漂っていた。
「これが……ルグナ遺跡?」
ミナが呟く。
その声には、恐れと興奮が入り混じっていた。
「ああ、そうだ。しかし──」
レオンは険しい顔で言葉を濁した。
彼の胸中には、最悪の予感が渦巻いていた。
「もう来てるな。あいつらが」
カイトが剣に手をかける。
その手は汗で湿っていた。
「一歩間に合わなかったか」
ガルドが剣を抜く。
その時──遺跡の闇の奥から、ゆっくりと一人の男が姿を現した。
黒いローブ。
背は高く、顔は無表情。
だが、その目だけが異様に冷たく、底のない闇を湛えている。
キーリはその視線を受けた瞬間、背筋が凍りついた。
胸の星が強く脈打ち、呼吸が浅くなる。
──この男は危険だ。
理由はわからない。ただ、本能が叫んでいた。
「誰あれ? アレスでもヴァルドでもないよね」
ミナが小声で言う。
その声は震えていた。
「気をつけて。彼は強いわよ」
ルミナの声も硬い。
男はキーリを見つめ、低く呟いた。
「……星の器」
その声には感情がなかった。
ただ、事実を告げるだけの冷たさ。
キーリは喉がひりつくほどの恐怖を覚えた。
「黒星教団の人間か」
ガルドが構える。
「そう……俺は黒星教団の人間」
男は淡々と答え、ゆっくりと手を上げた。
空気が変わる。
黒い気配が渦を巻き、遺跡の奥から黒い光が漏れ始める。
キーリの胸の星が強く反応した。
まるで警告するように、脈打つ。
その鼓動は痛いほどだった。
「遅い。もう戦いは始まっている」
男の言葉は、静かで、絶望的だった。
──星装置が、すでに動いていた。
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