旅立ち(第13話)
朝。ヴェーリス村の空は、いつもと同じように静かだった。
薄い雲がゆっくりと流れ、鳥の声が澄んだ空気に溶けていく。
森を吹き抜ける風が木々を揺らし、葉の擦れる音が柔らかく響いた。
村の朝はいつも穏やかで、変わらないはずだった。
──なのに、キーリにはすべてが違って見えた。
家の前に立ち、村を見渡す。
小さな畑。並ぶ木の家。細い道。
十四年間、毎日見てきた景色なのに、今日はどこか遠く、淡く、手の届かないもののように感じた。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
村の空気が、いつもより少しだけ重く感じた。
ふと視線を横に向けると、畑の端に置かれた古い木箱が目に入った。
子どもの頃、ガルドに怒られながら剣の真似事をした場所だ。
あの時、木の棒を振り回していた自分を見つけたガルドは、「剣は遊びじゃねぇ」と本気で叱った。
でもその後、こっそり木の棒を削って“練習用”として渡してくれた。
あれが、キーリが初めて手にした“武器”だった。
(……ガルドさん、覚えてるかな)
胸が少しだけ締めつけられる。
「……行くか」
少女は小さく呟いた。
背中には小さな袋。荷物はほとんど入っていない。
けれど、その軽さが逆に心をざわつかせる。
“本当に行くんだ”という実感が、胸の奥で静かに膨らんでいく。
隣に立つルミナが、静かに問いかけた。
「名残惜しい?」
キーリは少し考え、そして笑った。
「うん。でも、これからどうなるのか楽しみでもある」
その笑顔は、ほんの少し震えていた。
不安と期待が胸の奥で混ざり合っている。
村を出ることは怖い。でも、知らない世界を見たい気持ちも確かにある。
ルミナは優しく頷いた。
「世界は広い。私たちが思っている以上に。だからたくさんのことを知っていこ」
その言葉に、キーリの胸が少しだけ軽くなる。
ルミナの声は、森の風よりも静かで、でも確かに背中を押してくれた。
村の入り口まで歩くと、何人かの村人が集まっていた。
朝の光が彼らの影を長く伸ばし、別れの空気を静かに包み込む。村の人々の表情は、どこか寂しげで、どこか誇らしげだった。
ガルドもいる。
腕を組み、いつものしかめっ面。
だが、その眉間の皺はいつもより深く見えた。
「キーリ……来たか」
キーリは深く頭を下げた。
「ガルドさん。今までお世話になりました。ガルドさんのおかげで、私は強くなれました」
ガルドは何も言わず、背中に隠していた大きな袋を差し出す。
「キーリ。持っていけ」
受け取ると、中には乾いて硬くなったパンと──短い剣。
鉄の剣。
けれど、丁寧に作られているのがわかる。
手に持つと、ひんやりとした重みが少女の腕に伝わった。
その重さは、ただの鉄ではなく、ガルドの想いが詰まっているように感じた。
「ガルドさん、これ……」
「俺が作った。旅には武器がいる。それだけのことだ」
キーリは剣を握った。
少し重い。でも、不思議と手に馴染む。
村での生活では必要なかった“重さ”が、今は心強く感じられた。
「ガルドさん。ありがとう」
ガルドは鼻を鳴らす。
「死ぬなよ」
それが、ぶっきらぼうで、でも温かい別れの言葉だった。
キーリは胸が熱くなるのを感じた。
村長のアルドもいた。
杖をつきながら、ゆっくりとキーリを見る。
その目は優しく、どこか心配そうだった。
「北へ行け」
「北?」
「一番近い街がある。レクトの街だ。二日ほどの距離にある」
キーリはうなずいた。
「わかりました」
アルドはルミナに視線を向ける。
「お嬢さん。キーリは何もできないようなバカな子だけど、努力はできる子だ。キーリを頼む」
「バカって……」
ルミナは小さく笑った。
「任せて」
その笑顔に、キーリの胸が少し温かくなる。
ルミナが隣にいてくれるだけで、世界の広さが少しだけ怖くなくなる。
村人たちが見守る中、キーリとルミナはゆっくりと村を出た。
村の外に出ると、森の匂いが濃くなる。
湿った土の香り、草の青い匂い、遠くで鳴く鳥の声。
村の境界線を越えた瞬間、少女の胸に“旅が始まった”という実感が広がった。
キーリは一度だけ振り返った。
朝日を浴びた村は、金色に染まり、煙突から上がる白い煙がゆっくりと空へ溶けていく。
畑の向こうでは、村の犬がこちらを見て尻尾を振っていた。
その光景が、胸にじんわりと沁みる。
(……帰ってこられるかな)
不安が胸をかすめたが、すぐにルミナの横顔を見て、少しだけ勇気が湧いた。
村を離れてしばらく歩くと、森の入口が見えてきた。
木々が重なり合い、朝の光を遮っている。
その境界線は、まるで別の世界への扉のようだった。
キーリは足を止めた。
森の前に立つと、風の音が急に弱まり、鳥の声も遠くへ引いていく。
まるで森そのものが息を潜め、少女たちを迎え入れる準備をしているかのようだった。
ルミナも立ち止まり、静かに周囲を見渡す。
「……空気が変わったわね」
その声は、森の静けさに吸い込まれるように小さかった。
キーリは胸に手を当てる。
鼓動が、いつもより少しだけ速い。
村を出た時よりも、“戻れない場所に来た”という実感が強くなる。
森の入口には、昨日まで気づかなかった小さな花が咲いていた。
白い花弁が朝露をまとい、光を受けて淡く輝いている。
キーリはしゃがみ込み、そっと触れた。
「……綺麗」
指先に冷たい露がつく。
その感触が、胸の奥の緊張を少しだけ和らげた。
ルミナが言う。
「怖い?」
キーリは少し考えてから、正直に答えた。
「……うん。でも、行きたい気持ちのほうが強い」
ルミナは微笑む。
「それなら大丈夫。怖さは、前に進んでいる証拠よ」
キーリは深呼吸をした。
森の匂い──湿った土、草の青さ、木の皮の香り──が肺に満ちていく。
少女は一歩、森の中へ踏み出した。
その瞬間、木々の影が揺れ、光の筋が足元に落ちた。
森の道に足を踏み入れる。
朝の光が木々の間から差し込み、細い光の筋が揺れながら地面に落ちていた。
風が頬を撫で、少女の髪を揺らす。
キーリは深呼吸をした。そして──
「……行こう」
少女の旅は、静かに始まった。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




