【第9話】おかーさんの吸引力
リコルーナの顔と、あの海面に映っていた巨大な母親、アムピトリーテーの顔が突如として消えた。
そして、二つの顔が一瞬重なり合い、ぐにゃりと映像がブレた次の瞬間には――私は、アムピトリーテーの腕の中に抱かれていた。
彼女は純白のローブのようなものを身に纏い、お尻まで届くほどの長い髪が、ゆったりとウェーブを描きながら海の中に美しく広がっている。
その瞳は、まるで光り輝く黄金の海そのものだった。透き通るような深い慈しみの眼差しで、静かに私を見つめている。
「あうー!」
『なんて綺麗な人だろう……。おかーさん? うん、これ、間違いなく私のおかーさんだ』
あまりの神々しさと、そこに宿る圧倒的な母性に引き込まれるように、私はどうしてもその顔に触れたくなって、短い手を一生懸命に伸ばした。
彼女は、おぼつかなく伸ばされた私の小さな手をそっと優しく握り込むと、ゆっくりと顔を近づけてくる。
そして、自分の滑らかな頬に私の小さな手のひらを当てると、静かに目を瞑り、私の温もりを確かめるように、深く、愛おしそうなため息をついた。
『ああ……なんて優しくて、温かいんだろう』
この時すでに、私はオクタビアとしての精神に少しずつ引っ張られていた。
母の愛情を感じることのなかった人間時代の現実と、今となってはどうでもいい茂くんとのこと。タコになって父親に釣り上げられ、親の愛情に衝撃を受けたこと。そして、タコの子供と母親になり、母親の愛の強さを実感したことも。
今は、それらの出来事の本質だけが残った感じで、こう言ってはなんだか申し訳ないのだが、人生とタコ生、その二つの出来事自体が、このオクタビアとして生まれてくるための、精神の修行だったのではないかと感じていた。
「あうー!」
大人の精神であるはずの私の中に、無条件に守られ、愛されることへの絶対的な安心感が広がっていく。
すると、おかーさんは先ほどのリコルーナと全く同じように、私のふくよかで柔らかいほっぺたを確かめるようにチュッとキスを落とし、さらに自分の頬をグリグリと擦り付けてきたのだ。
『えっ!? 女神様もそのスキンシップやるの!?』
そんな私の驚きをよそに、彼女はまた幸せそうなため息をつき、愛おしそうに私の顔をじっと見つめた。
「あーやっと、やっと、あなたを抱く事が許されたのね、私の愛しの娘、オクタビア」
おかーさんは、涙を流している。
『えっ? 何か、神の決まり的な? 制約的なこと? 私の目が開いた事? 私の意識の覚醒的なことなの? うーん、考えても、わかんないや』
「リコルーナ。この子、私にそっくりですね」
おかーさんは、嬉しそうに泣き笑いをしている。
「そうですよ。アムピトリーテー様に似て、すごく美しくなられること間違いなしでございますよ」
同じ体から、二つの重なり合うような声が発せられる。
不思議な光景だが、私を心から愛してくれる二人の母の存在がそこにあるという事実が、心地よい温かさとなって私を包み込んでいた。
「お前たち、私を忘れてはおらぬか。羨ましいぞ」
海の底に響いたのは、少し拗ねたような旋律。父親であるポセイドンの声だ。
「リコルーナよ、私も娘を抱っこしたいのだが、アースを呼んでくれるか?」
「はい、かしこまりました、ポセイドン様」
リコルーナが、海中に響き渡るイルカのような高音で「ピュイピー」と笛のような鳴き声を上げた。
姿はおかーさんだが、音を出しているのはリコだ。
『あ、これ。動画サイトとかで見たことあるやつだ。シャチやイルカが仲間とコミュニケーションをとる時の言葉みたいなものかな?』
私はおかーさんとリコの二人が同居する顔に向け、その口元に小さな手を伸ばして「あ、あうー」と呼びかけてみた。
すると、それに気づいたおかーさんが私を見つめ、口からピーピーと音を出してあやしてくれる。リコが音を出しているのだと思うとややこしいが、不思議と理解はできた。
「ほーら、オクタビア。私のかわいい娘、オクタビア……。ああ、もう愛おしすぎて、私も食べてしまいたいわ!」
おかーさんはそう言って、小さなその口を精一杯大きく開けると、私のほっぺたをがじがじと甘噛みしてきた。私の柔らかい頬は、なすがままに形を変え、強く引っ張られる。
『ちょ、おかーさん! これ、甘噛みじゃなくて吸い付いてない!? あとが残るやつだよー!』
『いたた、あいたた、取れる、ほっぺた取れるよー!』
しかし、赤ん坊の私はされるがままだ。
悪い気はしないのだけれど、成人女性だった大人の精神からすれば、今の自分が絶対に変顔になっていることだけは容易に想像できて。誰にも見せられない顔になっているという事実が、少し面白くもあり、そして猛烈に恥ずかしかった。
「ちょ! アムピトリーテー様! オクタビア様のお顔に吸引の跡が残ってしまいますので、ほどほどにしてあげてくださいませ!」
おかーさんの口から、少し呆れたようなリコの言葉が聞こえてくる。声はおかーさんのものなのに、口調はリコ。やっぱりややこしい。
「あ、そうでした。ごめんね、オクタビア。あまりのあなたの可愛さに、つい我を忘れるところだったわ。オホホ!」
『おかーさん、「オホホ」じゃなーい! 結構本気で吸ってたよ。これ、三日くらいは消えないやつだよ……』
そんなやり取りをしていた、その時だった。
「リコルーナよ。アースはまだか?」
海中に響き渡る旋律。そこには「早くしてくれないか」という、隠しきれない焦燥の感情が混じっていた。
おとーさんからの、不器用なほど真っ直ぐな愛情。
『……ああ』
その旋律と共に、おとーさんの抱える事情が私の中に流れ込んできた。
神様としての強大すぎる力がゆえに、そのままの姿ではこの世界へ来ることができないという制約。そして、もうすぐ帰らなければならない時間への焦り。
『そのアースって人しか、乗り移れない的なこと? うん? ああ、そっか。流石に、リコにおとーさんが乗り移るのは、少し嫌かも』
しかし、私はその気持ちに応えたくて。
認識した時から、いや、会った時からすでに大好きだったおとーさんに向けて、おぼつかない両手を精一杯に伸ばした。
『抱っこして、おとーさん』
大きく映るその姿に向け、抱っこのポーズをして「あう、あう」と声を上げる。
大人の精神も入り混じった少し上から目線な考えかもしれないけれど、私は心の底からこう思っていた。
『おとーさん。私を抱っこさせてあげたい。抱っこしていいよ。あうー!』




