【第8話】大好きなリコ、絶対的な味方
次に目を覚ますと、私はその人魚の女性に抱きかかえられていた。
いわゆる、赤ちゃん抱っこだ。
黄金の部屋から、連れ出されたのだろう。遠く、はるか上の方に、海面らしきものがゆらゆらと揺れているのが見える。そこから光が差し込み、色とりどりの魚が、宝石を散りばめたように泳いでいた。
『めっちゃ幻想的な風景……』
思わず息を呑む。シャチの人魚である彼女の腕の中は、不思議なほどに落ち着いた。
『あー……落ち着くわー……』
そう思った次の瞬間、私の意識は急激に暗転し、再び寝落ちする。
そう、私はこのシャチの人魚の女性のことが、本能的に大好きだった。
まだ、場面がパッパッパッと切り替わる感覚がある。それは、この未成熟な体と脳が、休み休み動いているからなのだろうか。それとも、単にほぼ寝ているだけなのだろうか。
精神は人間のものだが、肉体は大人のそれとは程遠く、頼りない感覚に支配されている。しかし、抱きしめてくれるこの人からは、私のことを嘘偽りなく愛し、大事に育てているという温かな情愛が、波のように伝わってきた。
「ほら、オクタビア様。ポセイドン様と、アムピトリーテー様が、お顔を見に来られましたよ」
眠たい目をうっすらと開けかけた私は、その名前に跳ねるように意識が覚醒した。
『え?! どこ。てか、よく考えたらポセイドンと、アムピトリーテー!? まんまギリシャ神話じゃない!』
はいはい、流れからして、私はその二人の赤ちゃんってことね。納得したわ……。
『……って、どゆこと!?』
シャチの人魚に抱きかかえられたまま、必死に周りを見渡してみる。けれど、そこには誰もいなかった。色とりどりの魚が、のんきに泳いでいるだけだ。
私は、彼女の方に顔を向け、精一杯の意思表示を試みた。
「どこ? あうー!」
首が座っていないせいで、視界がぐわんぐわんと揺れる。私は必死に、抱き上げてくれている彼女の顔を見上げた。
あらためて見ると、私の専属お世話係は、かなりの美人だった。
肌はつるりと滑らかで、二十代前半といったところだろうか。黒い瞳は、少し垂れ目気味で、私を見つめる眼差しには慈愛が満ち溢れている。
何より特徴的なのは、その髪だ。
シャチの尾ひれと同じ、鮮やかな白と黒のツートンカラー。腰まであろうかという長い髪は、水中で邪魔にならないよう、丁寧に一本の編み込みにまとめられていた。頭には、きれいな、ピンクの珊瑚の飾りがきれいな、カチューシャぽい飾りがのっている。
『おー。お洒落だし、何より機能美を感じるわね』
上半身には、白のペプロス風の柔らかな布を纏っているが、その下から伸びる力強いシャチの尾が、彼女がただの人間ではないことを物語っている。
『優しそうだし、仕事はできそうだし……。これ、お世話係としては最高の大当たりなんじゃない?』
私がそんな大人の品定めをしているとも知らず、彼女――リコルーナは、私の「あうー」という鳴き声に、これ以上ないほど輝かしい笑顔で応えた。
「ふふっ。ポセイドン様たちがどこにいらっしゃるか、気になるのですね? オクタビア様は本当にお利口さんですこと!」
「あの、光の射す方がお見えになりますか?」
リコルーナはそう言うと、私の小さな体を優しく抱き直し、海の上――つまり海面を指差した。
『うーん? どこ?』
私が短い首を一生懸命に巡らせていると、彼女は愛おしそうにクスクスと笑う。
「ふふふ。オクタビア様、一点を見つめても見えませんよ。あの海面全体を、広く見てください。ほら、二人のお顔が見えてきませんか?」
言われた通り、視界の焦点を外して、きらきらと光る海面全体をぼんやりと眺めてみる。すると――。
『デカ!!?』
見えた!
ただの波の陰影にしか見えなかったものが、視界に入る広い海面全体を巨大なスクリーンにして、浮かび上がってきたのだ。
直径何百メートルあろうかという、満面の慈愛に満ちた笑顔が二つ、そこにはっきりと映っていた。
スケールがデカすぎて、私の脳の処理がまったく追いつかず、今まで気づかなかったのだ。
「あうーー!!」
あまりの神話級のスケール感に大人の精神がパニックを起こし、私は反射的に体をビクッと震わせた。その瞬間、緩んだお尻の筋肉から小さな音が漏れた。
ぷ!
『あー……驚きすぎて、おなら出た』
「あうー!」
私はその神々しい顔を指差そうとしたが、赤ん坊の短い手で、器用に人差し指だけを出すことなどできるはずもない。
「あうあう」と声を上げながら、両手をにぎにぎと動かして、シャチの人魚である彼女に『見えたよ!』と一生懸命にアピールした。
シャチの彼女は、私の言っていることが理解できているのかいないのか。
「うーん、うーん!」
彼女はそう言いながら、赤ちゃん特有のふんわり、ぼてっとした私のほっぺたに、自分のすべすべの頬を力いっぱい擦り付けてきた。
私の柔らかいほっぺは、その圧力になすがままに変形し、とんでもない変顔にされてしまう。
『や、やめてー! 前世の大人の威厳がー!』
心の中で叫ぶが、もちろん声にはならない。
すると彼女は、先ほどの私の生理現象を思い出したのか、嬉しそうに声を弾ませた。
「そして、ぷー出ましたー! うふふ」
そして、あろうことか「くんくん」と私の股の間に直接顔を近づけ、匂いを嗅ぎ始めたのだ。
『えっ!? ちょっと、直接嗅ぐの!? お嫁にいけない!』
「うん! うんちじゃないみたいですね」
彼女は満面の笑みでそう結論づけると、またしても私の顔に自分の顔をグリグリと擦り付けてくる。
『私は、なすがままだ……』
圧倒的なスキンシップの嵐の前に、私の大人の精神は完全なる白旗を揚げるしかなかった。
その時、海全体に広がるような、優しく包み込むような歌声の旋律が響き渡った。
かたまりになって泳いでいた小魚の群れが、その音色に合わせるようにパッと広がり、キラキラと輝きながら、またまとまって目の前を過ぎていく。
波打った白い砂浜状の海底が、水上からの光を受けて、美しい陰影を描き出している。
『……めっちゃ綺麗だ』
大人の私の精神も、そのあまりにも幻想的な光景に、思わず感嘆の息を漏らす。
「リコルーナ。私の娘は、元気かしら?」
それは物理的な音というよりも、私を慈しむ親の愛情そのものが、直接魂に流れ込んでくるような、すごく心地よい旋律だった。その声が響くだけで、絶対的な安心感が胸を満たしていく。
「ポセイドン様、アムピトリーテー様、ご機嫌麗しゅうございます。はい、オクタビア様は、それはそれは元気に、お育ちになられてますよ」
リコルーナは私を抱きかかえたまま、巨大な海面の笑顔に向かって、それはもう嬉しそうに、そして恭しく頭を下げて報告した。
「私もう、オクタビア様の事が可愛くて可愛くて、食べてしまいたいぐらいです」
リコルーナのニッコリと笑った口が、耳まで大きく裂けた。そして、あのシャチ特有の、鋭く綺麗に並んだ牙がはっきりと見えた!
『ひぃっ!? これ完全に捕食者の顔!』
「オクタビア様ー! 食べちゃいますよー!」
大人の精神がホラー映画のような恐怖を覚えるのをよそに、彼女は私の頭をがじがじと優しく甘噛みし始めた。
当の私はというと、いつものスキンシップだということを体が覚えているのか、なすがままに身を任せて「キャッキャ」と無邪気に笑っていた。赤ん坊の肉体は、この心地よい刺激に抗えないらしい。
「リコルーナよ。そなたが言うと冗談に聞こえないから、そんな事を言うのはやめておくれ」
海面に映る巨大な父親、ポセイドンが、苦笑混じりの優しい旋律でツッコミを入れた。
「リコルーナ。私も抱っこしたいのだけど、あなたの体を借りていいかしら?」
先ほどよりもさらに柔らかく、母性に満ちた愛おしい旋律が海に響く。
「ええ、もちろんでございます」
リコルーナが目を閉じ、静かに頷いた。すると、ふわりと温かい、別の大きくて優しい気配が彼女の体を包み込んだのがわかった。
『そうか。いつも私の面倒をみてくれている、この人の名前は……リコルーナだったんだ』
急に思い出したような、いや、ずっと前から知っていたような不思議な感覚と共に、すうっと頭の奥底に『リコルーナ』という名が刻み込まれていく。
前世からの大人の警戒心が完全に解け、無条件の愛を受け入れた安堵感が、私の小さな体を満たしていった。
『大好きなリコ』
『絶対的な、味方のリコ』




