【第10話】お尻拭き女王と、タワシの髭
「あらあら、あなたったら。そんな事言ったら、今急いでこっちに向かっているアースがかわいそうですわよ。アースはあなたの命を受けて、遠くのグレートシャーク族の和解会議に出向いていたのですから。……ほら、もう来ましたよ」
「あー勿論わかっておる。わかっているのだが……ああ、そうだな。すまなかったな、アースよ。急がせてしまって」
申し訳なさそうな旋律が、海の底に響いた。
二つの人格が同居するおかーさんの顔も、そちらを向く。
『デカっ! デカ過ぎる!』
そこには、紛れもない体長五メートルほどあろうかという、白と黒の模様の巨大なシャチがいた。猛スピードで泳いできたのだろう。シャチの姿なのに、巨体を大きく上下させて息を切らしているのがわかる。
その時、ポンッと小気味良い音を立てて、巨大なシャチのアースがリコと同じようにシャチの人魚の姿へと変化した。
「アース、ごめんなさいね。うちの人がわがまま言って」
見た目は、リコと同じ二十代前半といったところだろうか。しかし、その体は無駄なく引き締まり、分厚い筋肉に覆われている。身長は百九十センチくらいあるのではないかと思えるほどの大男だ。
髪はリコと同じく白と黒のツートンカラーで、肩までの長さを後ろで無造作に束ねていた。
『……いや、結構いい男じゃない』
私の内にある大人の女性の精神が、冷静に、かつ少しテンション高めにそう判定を下す。
「いえ。お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした、ポセイドン様」
アースはそう言って、水流をものともせず器用に腰を曲げ、深く頭を下げた。
「ご機嫌麗しゅうございます、アムピトリーテー様。今日も大変美しゅうございますね」
「こら! アース! もう少し急げたんじゃないの! ポセイドン様を待たせて、ほんとに何やってんのよ!」
突然、おかーさんの口から、リコルーナの厳しい叱責が飛んだ。初めて聞くリコのきつい声色に、私の体は思わずビクッと震えてしまう。
「あー、オクタビア様。すみませんねー。驚かせてしまいましたかねー」
するとリコは、一瞬でいつもの優しいお世話係の声に戻り、私のお尻を軽くリズムよく「トントン」と叩いてあやしてくれた。
『あー……寝落ちしそう。そのトントン効くわー。あー、心地いいー……。はっ! だめだ!』
危うく寝落ちしそうになった。大人たちのやり取りなどどうでもよくなるほど、私の目はすでに半開きだ。赤ちゃんの睡眠欲求には抗えない。
しかし、怒られたアースの次の一言に、私は『はっ?』と思い、夢の世界へ旅立とうとしていた意識が一気に現実へと引き戻された。
「はい、女王様。申し訳ありませんでした。なかなかお互いの合意が取れなくて……そこに女王様からの笛の音が聞こえまして。仕方なく最後はもう、殴って無理やり話をまとめてきた次第でして。すみませんでした!」
『いや、脳筋か! 物理で解決してきたの!?』
渾身のツッコミを入れた直後、私の脳内であるワードが強烈に引っかかった。
『え!? リコ!? リコルーナ女王様!? どゆこと!? リコって偉いの!?』
『いや、確かにリコの頭にあるカチューシャ、なんか普通のカチューシャにしては宝石とか珊瑚とかついてて、少し豪華だなとは思っていたけど。あれって、もしかして王冠なの!? なぜに女王様が、私のお尻なんか拭いてるの!?』
「あう? あう?」
「はい、勿論でご――」
アースがそう言葉を紡ごうと仰々しく頭を下げようとしたのだろうが、その言葉を待つことなく、次の瞬間にはもう、髪の毛と繋がった黒い髭もじゃの顔に変わっていた。
「あらあら、あなたったら。そんなに待ちきれないのね、うふふ。しょうがない人ね」
私はおかーさんの腕の中でそんな様子を見て、そこまで私を抱っこしたがるおとーさんに対して少し可愛く思えてきて、おもいっきり甘えて『大サービス』をしてあげようと思った。
「どれ、アムピトリーテーよ。我が娘を、この腕に渡してくれ」
「はいはい、どうぞ。落とさないように気をつけてくださいね。それと、首がまだ座りかけなので、乱暴に扱われないように、くれぐれもお気をつけくださいね」
おかーさんとリコが、二人で念を押した。
「おお、わかっておる。乱暴に扱うものか」
そう言って、ポセイドンおとーさんは、ぎこちなく、少し震える手でそっと私を受け取ろうと手を伸ばす。
『よし、ここは大サービスだ』
私は「あうー」と声を上げ、精一杯に小さな両手をおとーさんに伸ばして、抱っこのポーズを取った。
「おうおうー! そうか、我に抱っこして欲しいのか。そうかそうか」
おとーさんはもう満面の笑みだ。なんだか、感動で涙まで出しそうな勢いである。神様なのに、まるで尻尾を振る大型犬みたいだ。
『父親って、なんてチョロいんだ』
私の大人の精神が冷静にそう判定を下し、心の中で吹き出す。
「あーうー」と手を伸ばしていると、おかーさんが私の体の角度を変え、ポセイドンおとーさんの腕にそっと乗せた。
瞬間、視界が満面の髭面でいっぱいになった。
『ん?』
私は少し身構えた。嫌な予感がしたからだ。
まさか、まさか、その硬そうなタワシのような髭を、擦り付けたりはしないでしょうね……?
私が身構えていると、おとーさんが感極まったように口を開く。
「おおー、なんて軽いんだ。おおー、我が娘、オクタビアよ。なんて愛らしい。お主らがさっき言っていた通り、ほんとに食べてしまいたい気持ちもよくわかるわ。おお、オクタビア。お前を傷つける者がいたなら、私が地獄に消し去るからな」
「そうですね。私も、オクタビア様を傷つける者がいたならば、その時は容赦なく葬り去ることを誓います」
おかーさんの姿から、リコが言葉を発した。少し物騒な言い回しだが、そこまで思われることには、やっぱり悪い気はしないものだ。
そして――。ついに、髭面が大接近してきた。
ジョリ、ジョリ、ジョリ!
やっぱり頬擦りしてきた! 大サービスをすると決めた以上、少し耐えてみたが、やっぱりダメだった。
痛い。普通に痛い。
『タワシで赤ちゃんの柔肌を擦るなー!』
「はぎゃー!」
私は赤ちゃんの体で泣き叫び、精一杯の拒絶を訴えた。
そして両手で、その髭を力の限り下から遠ざけようと押してみたが、やっぱり力が入らない。
「あなた! オクタビアが痛がってますよ! 髭が痛いのわからないのですか!」
さすがはおかーさん、すぐにわかってくれた。助かった!
「ポセイドン様。オクタビア様の肌はまだ敏感なのです。どうか、もう少し優しくスキンシップしてくださいませ」
「あ、ああ、すまん。オクタビアよ、痛かったよな。どうか、父を嫌いにならないでおくれ。すまん、すまん」
泣く私を見て、本当にすまなそうにしている。そのしょんぼりとした様子に、ポセイドンおとーさんがまた可愛く見えた。
私は泣き止んで、『大丈夫だよ』と伝えるように、「キャッキャ」と笑ってあげた。
そしたらもう、おとーさんが喜ぶこと喜ぶこと。
「おお! オクタビアが笑っておるぞ! 私が父だぞ!」
「よかったですね、あなた」
「よかったですね、ポセイドン様」
おかーさんの顔から、リコの感動の涙が流れる。
『えっ! 私、こんなに愛されていいのかな?』
流石に愛されすぎて怖いんだけど。ドッキリかなんかじゃないでしょうね?
まあいっか、身を任せようもう。抗いようもないしね。
そんな事を考えていると、おとーさんの口を使って、別の声が響いた。
「あの、その……私も、その、オクタビア様を抱っこしたいのですが。よ、よろしいでしょうか?」
アースが言葉を発したのだ。
「おお、そうか。そうだな。アースも、オクタビアが生まれるまで随分面倒を見てくれたな」
「そうですよ、アース。どうかこれからも、リコルーナと協力してオクタビアを守ってあげて」
「はい、勿論でございます。オクタビア様が、自分に死ねとおっしゃるなら、この命すぐに差し上げる所存でございます。では、失礼して」
『は?! なんで私がアースに死ねと言うの? そんな場面あるの? 怖いよー!』
そして――。
体はおとーさん(髭面)のままだが、その雰囲気がガラリと変わった。本当に、壊れ物を扱うような慎重な雰囲気だ。
「アース! こんなオクタビア様を抱っこ出来る機会を与えてくださった、ポセイドン様とアムピトリーテー様に、ちゃんと感謝しなさいよね!」
怖い方のリコが、アースに釘を刺す。
「はい、女王様。ポセイドン様、アムピトリーテー様、こんな名誉な機会を与えてくださり、本当にありがとうございます。一生の思い出として、そして、これは私の仲間にずっと自慢できます……。ああ、これが、これがオクタビア様……。なんと美しく、愛らしいお方なのでしょう」
そう言いながら、アースは私の目を真っ直ぐに、真剣な眼差しで見つめてくる。まるで、本当にかけがえのない宝物でも見るような目だ。
『気恥ずかしい……すごく気まずい。目を逸らしてしまいたい』
いや、今日は大サービスをすることに決めたのだ。私は「キャッキャ」と笑ってあげた。
大人の精神をフル稼働させた、渾身の作り笑いだ。どう?
「うおーー! 女王様! オクタビア様が、私に笑いかけてくださいました! なんと神々しい笑顔!」
アースはそうやって大袈裟に体を反らせ、顔を海面に向けて叫んだ。
『……この人、泣いてるよー! 言葉に気をつけよう。この人ほんとに私のためなら、なんでもやりそうだわ! 怖いよー!』
いや、大袈裟。流石に大袈裟だよ!
『……なんか、なんだろう。前世でもこんなにチヤホヤされた経験なんてないから、猛烈にムズムズしてきた』
「キャッキャ!」
「ああー! また、オクタビア様が! 私に笑いかけてくださった! おおー! もう死んでもいいー!」
アースが感極まった声を上げる。すかさず、おとーさんが対抗するように声を張り上げた。
「アースよ! 違うぞ、今のは我に笑いかけたのだ。のう、オクタビアよ! おおー! 我が娘よ! 父がわかるのか! おお! なんと賢い子なんだ!」
『やばい。これ……くせになりそう』
前世の苦労を考えれば、ただ笑うだけでこれほどまでに強大な存在たちが跪き、幸せな空気が溢れ出すのだ。この状況、利用しない手はない。
「キャッキャ!」
『あー、やめられない。キャッキャ!』
「おおー! オクタビア様ー!」
「おおー! 我が娘よ!」
「キャッキャ!」
「おおー! オクタビア様ー! もうこのアースを、殺してください!」
「何を! アース! 私を差し置いて! オクタビアよ、父をもう殺してくれー!」
「キャッキャ!」
『あー、止まらないよー! 前世の苦労が報われるどころか、お釣りが来るレベルのこの快感!』
もう、大人の尊厳などどうでもよくなっていた。
私はただひたすらに、目の前で限界を迎えている大人たちに向けて、愛嬌の弾丸を撃ち続けた。




