【第11話】母の温もりと、海に響く別れの旋律。そして残された肉食獣(リコ)
「あなた、そろそろ時間も押し迫って来ました。最後に、どうか私に抱かせてください」
おかーさんが、淋しそうな声でそう言った。
もう別れが近いんだって、私もすぐに理解した。私はそれに精一杯応えてあげようと、おとーさんの腕の中から、なんとか両手で「抱っこして」のポーズをとってあげた。
これはやはり、大人の精神があったからできたのか。それとも、赤ん坊としての本能的な行動なのか。それは本当に、私自身にも判断ができなかった。
おかーさんは静かに私を受け取り、その腕の中にすっぽりと収めてくれた。少し縦抱きっぽくして、私を優しく抱きしめ、互いの頭が交差する。
おかーさんは、私の後頭部の髪の毛の、赤ん坊特有の乳臭い匂いを確認するように、愛しい娘の匂いを胸いっぱいに深く深く吸い込んでいた。
同じく私も、おかーさんの匂いを嗅いで、無意識のうちにその温もりにすがりついてしまう。
『おかーさんだ。おかーさーん。これ、甘えていいんだ。よし、思いっきり甘えよう』
やっぱり、少しあのタコのおかーさんの記憶も残っているので、わずかな罪悪感が胸に滲む。
しかしそれと同時に、人間の大人の精神が、弱肉強食の本質を冷静に分析し、「あれは弱いが故の、タコの生存競争だったのだ」と、なぜかスッと腑に落ちるように理解させてくれた。
『それは、今私が圧倒的な強者の子供として生まれたから気づけたことなのね。世の中の真理なのかな? 弱ければ、理不尽な事にあう確率が上がるのも、これまた真理なのよね。あー……』
そんな少し冷徹で、シビアな思考が頭をよぎる。
しかし、今はただただ、この温もりのなかで、すごく安心できた。
『私は、ここに誓う』
あの人間だった時と、タコの子供時代。そして、タコの母親として死んだ経験があるからこそ、私は絶対に天狗にならない。
『誰にでも優しくしようと、今、心に刻んでおこう。忘れないように』
私はおかーさんにしがみついた。赤ちゃんの弱い力だけど、それが伝わったのか、おかーさんがおんおんと泣き出した。
「ああ、オクタビア。私の愛しい娘」
「アムピトリーテーよ。別れは辛いが、我らは帰らねばならない」
「わかっておりますとも。しかし……ああ、オクタビアぁ」
「門が閉まってしまう。辛いが、行かねばならない。リコルーナよ、娘を頼む」
「はい、ポセイドン様。何も心配などなさいませんよう。オクタビア様は、このリコルーナが命に代えてでも、大事に育てさせていただきます」
「リコルーナ。あなたなら安心して預けられるとわかっていても、私は毎回こんな別れを……ああ、別れが辛い。オクタビア、私の娘オクタビア。母は行かねばなりません。どうか、どうかこんな母を許しておくれ、オクタビア」
「アムピトリーテー様。門が閉まってしまいます。オクタビア様の事は、私めにお任せください」
「はい、わかりました。では、あなた。行きましょう」
そして、私を抱いているおかーさんの姿が、リコルーナの姿に変わる。
揺れる海面いっぱいに、おとーさんとおかーさんの顔が映る。二人とも涙を流しながら「オクタビア、ああ、オクタビアー!」と叫び、別れの悲しみの旋律が海全体に響く。
私は両手を海面に向けて懸命に抱っこのポーズをとり、私の本能が別れを理解して、「アンギャー! アンギャー!」と泣いていた。
それを見たおかーさんも辛そうに、もう私の方を直視できないのだろう。「ああ、オクタビア、オクタビア許しておくれ」と顔を伏せて泣いていた。
『次会えるのいつなの?』
私はすごく不安になった。神の感覚なんだ。きっと、十年後? いや、百年後かもしれない。もっとそれ以上かも? もしかして永遠の別れ!?
そう思うと、私はさらにギャン泣きしてしまう。
「リコルーナよ。オクタビアをよろしく頼んだぞ。では、行こう、アムピトリーテー。門がもう閉じかけておる」
「はい、わかりました、あなた。少し落ち着きました。オクタビア、私の娘オクタビア!」
「また明日くるからね! ああ、寂しい。いっとき会えないのが!」
『ずこーー!』
『明日来るんかい!! いや、嬉しいけどね!』
とはいえ、姿が消えゆく間際まで大袈裟に天を仰いで名前を呼んでくれる両親の姿を見て、私も少しの間だけれど実際に寂しい気持ちになり、赤ちゃんらしく泣いてしまった。
『あーこれ、完全にこの体に馴染み始めたんだな』
だんだんと、大人の自分が赤ちゃんでいる事の気恥ずかしい気持ちが薄れていく。
『でも、これってあのタコの経験がなかったら、私、絶対に悪役令嬢ものみたいに振る舞っていたかもしれない』
そう思うと、あのタコの経験に感謝してしまう。
同時に、冷たい海に置いてきてしまったあの小さな命たち……私のタコの子供たちに対する気持ちが、まだ胸の奥でチクチクとくすぶっている。
『やっぱり私、特殊な経験してるなぁ。あの子たち、元気に育ったのかな……。しかし、そもそもここどこなんだろ』
そんな事を、ぼーっと考えていた。
消えていくおとーさんたちの姿を最後まで見送るべく、私はとびきりの笑顔をサービスしてあげる。
「キャッキャ!」
『まあ、しょうがないよ。この愛を受け止めるしかないね。あの過酷な経験があったからこそ、今がこれほどまでに幸せに感じるんだ。そうだよね』
そして、おとーさんとおかーさんは消えていった。
その後には、きれいな太陽の光が、海中の砂浜までカーテンのように伸びている。下から見る海面は、何事もなかったかのように光を湛えて揺れていた。
「さあ、オクタビア様。神殿に帰りましょう」
仰々しく頭を下げていたリコが、私に頬擦りをしながら微笑みかけてくる。
だがその瞳は、獲物を前にした肉食獣のように爛々と輝いていた。
「あー、もう、我慢してました! あーオクタビア様!」
「……んっ!? んんー!」
リコが私のほっぺたを吸引し始める。
『え!?』
私はなすがままだ。
『あいたたた! いたい! いたたた!』
『リコ! 痛いんだけど、ちょっと! リコーー!』
「アース! あなたは周辺警備に戻りなさい!」
「はい、女王様! かしこまりました!」
主君の命を受け、アースはどこかへ追いやられてしまった。
『リコ! さっきおかーさんに「吸いすぎたら跡が残るから優しく」って言ってなかった!? これ、跡が残るどころか、ほっぺた取れちゃうよー!』
『一人にしないで、アース! ほっぺたが取れる! ほっぺたが伸びちゃうよー!』




