【第3話】乙女の吸盤と、自慢のタコ腕
サザエを力技でこじ開け、美味しくいただいて一息ついたところで、ふと重大な疑問が頭をよぎった。
『私の心は女の子。では、今のこのタコの姿は? オス? メス?』
もし中身が28歳の結婚を控えた乙女なのに、外見が海の荒波に揉まれた「おじさんタコ」だったらどうしよう。一瞬、冷たい海水よりもヒヤリとする不安がよぎったが、私はすぐに自分で答えを導き出してホッと息を吐いた。
『そう、メスでーす』
なぜ自分の姿を鏡で見たわけでもないのに、そこまで自信満々に断言できるのかって?
『私の家は前にも話したけど、タコ漁師と田んぼをやってる、いわゆる兼業農家。いや、兼業漁家? まあそんなこんなで、メスとオスの見分けなんて朝飯前なんだな』
私は八本あるうちの一本を目の前にスッと持ち上げ、裏側にびっしりと並んだ丸い吸盤をまじまじと観察した。
『タコのオスの吸盤は不揃いで、メスの場合は根元から綺麗に均一に並んでるのね』
腕の付け根から先端へ向かって、まるで定規で測ったようにピシッと二列に整列している吸盤たち。それは、実家の生け簀で嫌というほど仕分けをしてきた、見慣れたタコのメスの特徴そのものだった。
これがオスであれば、ところどころに不自然に大きな吸盤が混ざっていたり、腕の先が交接腕(生殖器)になっていたりするのだ。
『だから私はメスなのねー。とりあえず、素直に喜んでおこう』
もしオスだったら、人間としての乙女心が少しダメージを受けていたかもしれない。「おじさんタコ」を無事に回避できたという事実と、整然と並んだ自分の美しい吸盤の列を見つめながら、私は海の底でふんわりと小さな喜びを噛み締めていた。
あれから数週間の時が流れた。
『それからうまく捕食者からも逃げおおせて、やっぱりあまり動かないほうが良くて』
無駄な体力を使わず、岩肌にペタリと張り付いて息を潜める。
このカメレオン的な擬態能力も、敵から逃げるためというより、獲物を待ち伏せしたほうが安全かつ確実に狩りができることを、数週間で学んだ。いや、学んだというより本能なのだろう。
周囲の景色に完全に溶け込み、射程圏内に獲物が入るのをジッと待つ。その静かで冷徹な感覚は、熟練のハンター(スナイパー)そのものだった。
『私のからだはもう、海鮮グルメのおかげでかなり大きくなっていた』
贅沢な海の幸を毎日バイキング感覚でたらふく平らげ続けた結果、あの米粒のように小さかった体は、立派でたくましい海のプレデターへと変貌を遂げている。
さらに成長に伴って、身体感覚も劇的な進化を見せていた。
『足の動きも、各足が……うーん、並列思考ってやつぅ?』
タコの八本の腕にはそれぞれ独立した神経ネットワーク(脳)がある。私が「右の腕でカニを捕まえて、左の腕で岩にしがみつけ」といちいち頭で指示を出さなくても、腕たちが勝手に周囲の状況を判断して完璧な仕事をしてくれるのだ。
『足が私であり、私が足であるような。あの、ピアノを上手に弾く感じぃ? 右手と左手が、違う動きをスムーズにできる感じぃ?』
まるで天才ピアニストが複雑な旋律を軽やかに弾きこなすような、圧倒的な万能感。私の意識とタコの肉体は、完全に一つの完璧な生き物として調和し始めていた。
『あ、そうそう、あと一つ分かったことがあるのね。実はね、わたし……あのほら、タコの足の真ん中にある、一般的にカラストンビって言われてる鳥のくちばしみたいな黒いやつ』
股下にある鋭利な器官を、私はまるで最新式のキッチンツールでも自慢するような気分で思い浮かべていた。
『あれ、硬いだけじゃなくてね、中にまたザラザラした舌があって。口の中から毒……そう、私、毒持ちなのよ』
獲物に噛み付くと同時に分泌される麻痺毒。客観的に見れば完全に恐ろしいモンスターの所業だが、今の私にとっては、料理に極上のスパイスを振りかけるのと同じ感覚だった。痺れて動けなくなった獲物を前にすると、絶対的な捕食者としての妙な優越感すら湧いてくるのだ。
『それでね、その舌がまた便利なのよー。味はわかるし、硬い殻なんかもヤスリみたいにゴシゴシってすりおろして味わうわけよ』
歯舌と呼ばれるそのザラザラした器官を獲物にこすりつけるたび、ジョリジョリと小気味良い振動がタコの脳髄まで直接響いてくる。どんなに固く閉ざされた甲羅や貝殻すらも力強く削り取り、中から滲み出る濃厚なエキスを一滴残らず吸い尽くす多幸感たるや。
『おいしいのよ、またそれが。うふふ。もう完全に私、タコだわー』
かつてはウェディングドレスの締め付けに息を詰まらせていた私が、今では磯の香りと新鮮な血肉の味にドップリと酔いしれている。暗い岩穴の中で、一人優雅に血みどろの晩餐を満喫しながら、私は自身の完璧すぎる環境適応力に、思わず笑いをこらえきれなかった。
『あ~、ここの穴も、もうみんな私を警戒してあまり近づかなくなってしまったわー。おなかすいたー』
『そろそろこの家ともお別れかなー?』
長らく愛用していたマイルームの岩穴から、私はぬるりと八本の腕を伸ばした。周囲の獲物が寄り付かなくなったのもあるけれど、海鮮グルメのおかげで私の体が大きくなりすぎて、そもそもこの穴では身動きが取りづらくなっていたのだ。
『怖いけど、移動せざるを得ないかなー。あらよっと』
『まぁだいぶ狭くなったし、気をつけながら次のキッチンへごーー!』
『あー、すいー、すいー。あー、やっぱり海きもちいいわー。でも、やっぱり泳ぐと疲れるわー』
『さぁ歩くか。道子は、二足歩行を覚えた! なーんてね』
『こうやって、後ろ足二本で立って、前の四本を腕だと考えたら……あれ、二本余る? まぁバランス用でいっか!』
『あ! できた。先に岩に掴まって、足を寄せる感じね。結構早く動けるよ、私。たーのしーい!』
久しぶりに広い空間へと飛び出し、まるで初めからできたように、私は八本の腕を器用に使いこなして走っていた。どこまでも続く青い世界と、全身を包み込む水の冷たさがたまらなく心地よかった。
だが、すっかり油断しきっていた、まさにその瞬間。足首――いや、腕の先端あたりに、ゾクッとする嫌な感触が走った。ガシッ! と何かに力強く掴まれる。
『うおー!? 何? 足引っ張られてる?』
突如、私の八本の腕のうちの一本に、万力のような凄まじい力が加わった。下へ下へと強引に引きずり込まれる。振り返った私の視界に飛び込んできたのは、岩陰からぬるりと現れた、あの不気味で細長い影と凶悪な牙だった。
『こいつ、おかぁさんを食べたやつ?』
脳裏に、プロローグで私を守って噛み砕かれた、巨大な母ダコの赤い体がフラッシュバックする。あの絶望的なデスロールを引き起こした天敵、海のギャング・ウツボだ。
『うおー、逃げなきゃ! きゃー! 足ちぎれるー! 痛いよー!』
恐怖でパニックになりながら、必死に海水を噴射して逃げようと藻掻く。しかし、ウツボの鋭い牙は私の腕に深く食い込み、ギリギリと嫌な音を立てて肉を引きちぎろうとしていた。あぁ、終わった。激痛で気絶する、と思ったその時。
『あれ? いたくなーーい。ぜんぜん痛くなーい。痛覚無効?』
普通なら発狂してもおかしくない状況なのに、なぜか私には『引っぱられている感覚』があるだけで、痛みというものが全く存在しなかった。タコという生物の特性なのか、はたまた異世界転生のお約束であるチートスキルなのか。
『私の足さようならー!』
ブチィッ!という鈍い音と共に、ウツボに噛み付かれていた私の腕の一本があっさりと根元から切り離された。トカゲの尻尾切りのように、自らの意思で腕を切り離すタコの防衛本能『自切』だ。
『今のうちに墨吐いて逃げろー!』
ウツボがちぎれた私の腕(きっと最高に美味しいはずだ)に気を取られている隙を見逃す手はない。私は体内の墨袋から、真っ黒な煙幕を海中めがけて勢いよくプシューッ!とぶちまけた。視界を一瞬で奪う見事な目くらまし魔法だ。
『あー危なかった』
真っ黒な墨にまぎれて全力でその場から離脱しながら、私は失った一本の腕の喪失感よりも、見事に天敵から逃げおおせた自分の図太いサバイバル能力に、ホッと安堵の息を吐いていた。




