【第2話】さよなら茂くん、私は自由に生きる
『すいー、すいーと気持ちよく泳いでいたいけど、水流速くて上手く泳げない!』
流されないよう、岩をこう、吸盤でペタッと踏ん張る。
『えっ、私歩けるじゃん!』
泳ぐと非常に疲れるのは、タコの体の仕組みなのだろうか? 八本の腕をうねうねと動かして海底をのそのそと歩く感覚は最初は奇妙だったが、歩いた方が断然楽なことに私は気がついた。
そうして海底を歩きながら周囲を観察していると、視界の端で小さな影がぴょんと跳ねた。
『えい! なにこれ? 美味しそう』
脳で「捕まえよう」と指示を出すよりも早く、私の八本の腕のうちの一本が、獲物に向かって弾かれたように伸びていた。無数の吸盤が逃げようとする小さな甲殻類にピタリと吸い付き、絶対的な力で絡めとる。
『とりあえず考えるより先に、足? 手? が勝手に捕まえた、この小さな海老みたいなの。食べてみよっかなー!』
それぞれの腕が独立した思考を持っているかのような野生の反射神経に戸惑いつつも、私はその獲物を体の中心へと運んだ。
『うん? 悪くない』
バリッ、ボリボリッ……!
硬い殻が砕ける生々しい音が響き渡る。私の中心にあるカラスのクチバシのような鋭い器官――通称『カラストンビ』が、生きたままの海老をいとも簡単に噛み砕いていた。
『あーまだ、自分の股下に口があるの、違和感だわー』
頭の真下、つまり腕の付け根の中央でモグモグと食事をしている感覚は、人間の女性としての常識を大いに揺さぶってくる。客観的に見れば、エイリアンも顔負けのかなりグロテスクな絵面のはずだ。
『あーでも、ジューシー。なるほどね、甲殻類全般的に好きなのね、私って』
口の中に広がる濃厚な海の旨味と、生き血の新鮮な甘さ。残酷なまでの野生の捕食行為を前にしても、私の食欲は引くどころかますます刺激されていた。
『まぁ人間時代も海老カニ好きだったし、食事には苦労しなさそうね。だって、そこらじゅうにいるじゃない。全部美味しそう!』
透き通った海を見渡せば、砂地や岩肌に数え切れないほどの小さな命が蠢いている。今の私にとって、この過酷なサバイバルの海は、巨大な無料シーフード・バイキングの会場にしか見えなかった。
『よし、岩陰に行って、とりあえずディナータイムといきましょう。おーう!』
私はご機嫌に漏斗から海水を吹き出し、一人きりの優雅で血みどろな晩餐を楽しむため、落ち着けそうな岩礁を目指してすいーっ、すいーっと泳ぎ出した。
ディナーの場所に選んだゴツゴツとした岩礁にペタリと張り付いた瞬間、不思議なことが起きた。
『あらあら、体もこの岩の色に……意識せずに、勝手に脳が判断して同じ色に変わるのね。びっくり、面白ーい! まるでカメレオンね。今度はこっち』
私の赤い半透明だった肌が、岩肌に触れた途端にスゥーッとざらついた暗褐色へと変化していく。右へ左へと移動するたびに、周囲の環境に溶け込むように自動で色彩が切り替わるのだ。タコの高度な擬態能力を、私はまるで魔法のドレスでも試着するような気分でキャッキャと楽しんでいた。
やがて、ちょうど私の体がすっぽりと収まりそうな、手頃な岩のくぼみを見つけた。吸盤を使ってぬるりと隙間に体を滑り込ませると、狭くて暗い空間が全身をぴったりと包み込んでくれる。
『あ~、落ち着くわー、岩場の穴の中。マイルームって感じかしら?』
タコの防衛本能なのだろう。周囲を硬い壁に囲まれている圧倒的な安心感に、思わずふぅっと息をついてくつろいでしまう。
と、その時。岩穴の端っこに身を潜めていた小さなカニが、私の登場に驚いて慌てて外へ逃げ出そうとした。
『おっと! 危ないよ、私のご飯ちゃん。これこれ!』
私はすかさず腕を伸ばし、逃げ惑うカニを吸盤で器用にキャッチした。暴れるハサミも、タコの強力な腕の前では無力だ。そのまま股下にあるカラストンビへと一直線に運ぶ。
『カニ美味しいよね、バリバリっと』
硬い甲羅が砕け、中からとろりとした黄金色のペーストが溢れ出してきた。股下の口から、タコの鋭敏な味覚神経を通して、脳天を突き抜けるほどの濃厚な旨味がダイレクトに伝わってくる。
『あ~ーたまんない! この蟹味噌、タコだとあの頃よりさらに美味しく感じちゃうわー、とろけそー』
人間時代に食べたカニの何倍も、何十倍も濃密な味わい。誰にも邪魔されない安全なマイルームの中で、私は一人、極上のディナータイムの幸福感にドップリと浸っていた。
極上のカニ味噌ディナーを終え、安全なマイルームの岩穴でふぅと一息ついた時だった。
壁にムギュッと押し付けている自分の腕を見て、私は決定的な違和感に気がついた。あれ、さっきここに入った時よりも、なんか穴が窮屈になってない?
『てゆーか、私、体大きくなるのはやくないですか?』
自分の体に視線を落とすと、八本の腕は明らかに太く、力強くなっていた。吸盤のサイズも一回り大きくなっている。
『もう、確か生まれたての頃は体感五ミリくらいだったはず。十倍ぐらいになってるんですけど私』
いくらタコでも、短時間で十倍サイズになるなんて異常事態だ。異世界転生特有のチート能力なのか、それとも私が魔物級のポテンシャルを秘めているということなのか。
そんなファンタジーな考察を巡らせていた私の視界の端を、透明な小エビがスッと横切った。
『あらよっと! テナガエビの赤ちゃん、ごめんね。うーん美味ー!』
成長した私の腕は、私が思考を終えるよりも早く、長バサミのようなリーチでいとも簡単にテナガエビを絡めとっていた。そのまま股下へ運び、おやつのようにポイッと口に放り込む。
プリッとした身の甘さが口いっぱいに広がり、異常な成長スピードへの戸惑いも「美味しい」の三文字にあっさりと塗り替えられていく。私の食欲は、体が大きくなるにつれてさらに底なしになっていた。
先ほど捕まえたテナガエビの余韻を口の中で楽しみながら、私は自分の腕に無数に並んだ吸盤を見つめて、ふふっと得意げに笑った。
『まぁ吸盤で持った瞬間に、大体の味、わかってるんですけどねー』
そう、タコの吸盤には、人間の舌にあるような味覚センサーがびっしりと備わっているのだ。ペタッと獲物に触れた瞬間、口に運ぶよりも早く「エビの甘み」や「極上の旨味」といった味のデータの波が、ダイレクトに脳内へ送られてくる。
いちいち口に入れなくても美味しいかどうかが判別できるなんて、まさに毒見いらずの超絶便利チート能力である。
『なんか楽しくなってきたわ』
狭くて窮屈になりつつあるマイルームの岩穴から顔を覗かせ、私は外の世界をギラギラとした目で見渡した。
完全に『捕食される側』の恐怖を忘れ、無限に広がるシーフード・バイキングでお腹を満たす快楽に目覚めてしまった私は、八本の腕をウネウネと動かしながら、すっかり海のハンターとしての喜びに支配されていた。
岩穴から外の海を広く見渡しながら、私はギラギラとした目でターゲットを探していた。
『次の獲物は? 獲物、獲物……』
獲物を探すその本能的な思考のループの中で。
ふと、人間だったときの、あの茂くんとの記憶――恋人同士で同棲していた頃の記憶が、鮮明に浮かんだ。
タコの目は人間のそれとは構造が違い、周囲をぐるりと見渡すことができる非常に広い視野を持っている。その物理的な視界の広がりが、私の精神状態にまで影響を与えたのだろうか。
それはまるで、あのときの自分を俯瞰して見ているような不思議な感覚。
『あの、捨てられるかも、とか。この人、私を捨てるんじゃないかとか……』
いつも不安で、彼の顔色ばかり伺って、嫌われないようにと息を潜めていた日々。
今思えば、なんて心の通わない恋人同士だったのか。なぜ、本音を聞けなかったのか。
本音をぶつけることもできず、ただ表面上の関係を保つことだけに必死だった。
『いま思えば、かなり自分自身、卑屈になっていた。そしてただ、結婚という世間体にこだわっていたんじゃないか』
あのまま結婚していても、決して幸せにならなかったんじゃないか……。なぜだか、そんな事が分かったような気がした。
タコとしての圧倒的な自由と、純粋な「生きる喜び」を手に入れた今だからこそ、あの頃の自分がどれだけ世間の常識という窮屈な箱に閉じこもっていたのかが、痛いほどによくわかる。
『なんかやだなー。今思えばあの頃の私、かっこよくないなぁー』
自分の腕にびっしりと並んだ吸盤を見つめながら、私はかつての自分の姿を冷徹に分析していた。
まるで獲物を逃したくない捕食者のように茂くんに固執し、捨てられないようにと必死に彼に吸い付いていた私。けれど、肝心の彼の心はどうだったのだろうか。
『実際、茂くんは私の事どう思ってたのかな?』
彼は本当に私を愛してくれていたのだろうか。それとも、彼もまた結婚という世間体や情に流されていただけなのだろうか。今となっては確かめようもない問いが、暗い水泡のように浮かんでは消えていく。
深い海の底で、私はただ静かに、過去の自分への少しの後悔と哀愁を噛み締めていた。
……けれど、感傷に浸るのはそこまでだ。茂くんがどう思っていたかはもう確かめようがないけれど、今の私はこの八本の腕で自由に生きていく。
私は漏斗からプシューッ! と勢いよく海水を吐き出し、立ち止まっていた体を再び前へと押し出した。
『今更、後悔してもなんだかねー』
終わったことをウジウジ悩むのは、人間の時の私で終わりにしよう。ここは弱肉強食の海。立ち止まっていれば、今度は自分が誰かの『獲物』になるだけだ。
世間体という窮屈な箱から解放された今なら、なんだってできる気がした。
『タコでもいい。今度こそ、かっこよく生きたい』
誰の顔色も伺わず、自分の腕と力だけで、この広くて過酷な海を自由に生き抜いてやる。
決意も新たに、ギラギラとしたハンターの目で海底の岩場を見渡した私の視界に、ゴツゴツとした立派な殻が飛び込んできた。
『おっ! サザエサーン、私です。あなたを食べます。お覚悟! なんてね!』
硬いフタを閉ざして身を守っているつもりのようだが、今の私に備わった強力な吸盤と腕力にかかれば、そんな扉は簡単にこじ開けられる。私は未練を綺麗さっぱり捨て去った、陽気でたくましいハンターとして、新たな獲物に向かって一直線に腕を伸ばした。




