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『転生タコチュウチュウ♡』  作者: 亜呂真ほのか


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【プロローグ】【第1話】


著:亜呂真ほのか

【プロローグ】

主人公:山岸道子(28)

 私こと山岸道子は、大学時代から付き合っていた彼氏に、ついにプロポーズされるという人生最大の幸福を手に入れた。

 純白のウェディングドレスに身を包み、ステンドグラスから降り注ぐ光の祝福を受ける。

 そして迎えた結婚式当日。神聖なチャペルでの指輪交換からの、永遠の愛を誓うチュウ♡の瞬間がやってきた。

 ゆっくりと近づいてくる、大好きな茂くんの優しい顔。

 嬉し涙で視界が滲み、胸がいっぱいで息が詰まりそうになる。私は静かに目を閉じ、胸の中で万感(ばんかん)の思いを噛み締めていた。

 『付き合って六年。私もこの年になって、内心もう捨てられるんじゃないかとヒヤヒヤしてたけど……やっぱり茂くんは、そんな不誠実な人じゃなかった。あぁ……幸せな家庭を築きましょうね、茂くん、チュッ――!!』

 ――唇が重なる、まさにその刹那(せつな)

 突如として視界がぐにゃりと歪み、全身が奇妙な浮遊感に包まれた。唇に触れたはずの愛しい温もりは消え失せ、代わりに冷たくてしょっぱい水のようなものが口の中に流れ込んでくる。

 『あれ? なんか違うような……』

 パニックになってもおかしくないはずの思考は、どういうわけか恐ろしいほどに穏やかだった。ウェディングドレスの締め付けも消え、体中が驚くほど柔らかい。

 『あ〜、でも落ち着くわー……』

 まるで別の生き物の本能が、私の中で目を覚ましたかのようだ。

 『そうそう、お腹のあたりにある漏斗(ろうと)から水をピューッと、ピューーッと』

 『あ〜気持ちいい、スイスイぃーと』

 水を吐き出す反動で、前へと滑り出す未知の爽快感。結婚式のプレッシャーなんて完全に忘れて、私はただひたすらに薄暗い水の中を漂い続けた。

 人間の論理的な思考が、快感の中に溶けていく。

 『ふわふわー、ふわふわー。あ〜なんか落ち着くわー。これが、母の子宮ってやつ? あ〜……』

 すっかり警戒心を解き、究極のまどろみに沈みかけていた私の意識に。

 ふと、自分の手足の数や動かし方が、明らかに人間の女性のそれとは違うという、決定的な違和感が伝わってきた。

 『……ん?』

 『はい? いやいや、そんなわけないよね。なんだろ、閉じ込められてる?!』

 手足をバタつかせようとして、ぬるりとした薄い膜のようなものに全身が包まれていることに気がついた。水風船の中に押し込められているような、妙な圧迫感。

 そして、半透明の膜越しに「外の世界」を見た瞬間、私の思考は完全にフリーズした。

 『なんか、でかいタコが目の前にいるんですけど』

 視界を埋め尽くすほどの巨大な赤い腕。うごめく無数の吸盤。普通なら悲鳴を上げて気絶するほどの海鮮モンスターだ。

 『ん? どゆこと?』

 『えっ! おかぁさん……?』

 私の口から、信じられない言葉がこぼれた。

 いや、タコだよね。でも、なんだろ。その巨大な化け物のギョロリとした目から、果てしなく深く、温かい無償の愛を感じてしまうのだ。タコとしての本能が、彼女を母だと認識して泣きそうになっている。

 『おかぁさん。タコが』

 『頭こんがらがってきた。私におかぁさん二人いたっけ? 人間のお母さんと、目の前にいる巨大なタコのお母さん』

 『いや、私にお母さんの記憶はなかったな。ん? お母さんは、私を産んで、すぐに亡くなったんだった。物心ついた時最初、ばぁちゃんが、おかぁさんだと、思ってたのは、いい思い出だなぁ』

 『私は、母の愛情を、知らない、でも、皮肉にも、こんな感じなのかなと、目の前のタコからの、母性を、その眼差しから、小さな吸盤で、匂いと、雰囲気(ふんいき)、を、感じ取って、いた』

 海水を介して伝わってくる、強烈で、優しくて、悲壮なまでのフェロモン。タコの鋭敏な感覚器官が、目の前の巨大な命が発している『我が子を守る』という絶対的な意志を、言葉ではなく直接、私の脳髄へと叩き込んでくる。

 『ああ、この人命懸けで、我が子を、守ってるんだ。きっと、人間のおかぁさんも、私を命懸けで、産んだに違いない』

 『父は、その事について、私が、小さい頃は、一切話さなかった、私も、どこか、聞いたらいけないと、小さいながら、思ってたなぁ、話してくれたのは、母方のばぁちゃんだった』

 『小さい私は、ふーんそうなんだぐらいしか、反応しなかったと思う。いや、今の今まで、そんな感じだった』

 『しかし、少し、ほんの少し、わかったような気がして、やっと、今、感情が、動いた気がした』

 胸の奥で、今まで鍵がかけられていた重い扉がパカッと開いたような、切なくて温かい痛みが広がる。タコの三つの心臓が、人間の時とは違うリズムで、トクン、トクンと哀しげに鳴った。

 『タコだから、涙腺なくて、泣けないけど、少し、泣きたくなったのかな? よくわからないや』

 冷たい海水の中で視界がぼやけることはない。けれど、私の心は間違いなく、今まで一度も思いを馳せることができなかった『人間のお母さん』への愛おしさで、静かに、激しく泣いていた。

 混乱する頭で視線をずらすと、さらに衝撃の光景が飛び込んできた。

 よく見たら、周りにいっぱい小さなタコが……。藤の花のようにぶら下がった無数の卵の膜の中で、お米みたいな半透明の丸い頭の生き物が、うじゃうじゃとひしめき合っている。

 『あれ、タコだよね。おーい兄弟姉妹たちー!』

 ……って、そんなのんきなこと言ってる場合じゃなかった。

 自分の体に視線を落とす。八本ある吸盤だらけの短い腕。

 『あ〜これ、私、タコだわ。完全に理解した』

 『たしかに私の父親、タコ漁師だったけど。これってタコの恨み? 因果応報(いんがおうほう)ってやつ!?』

 『なんでよー! どうしよう、あーどうしよう!』

 水風船のような卵の膜の中で、私はパニックに陥っていた。

 短い八本の腕をじたばたと動かし、なんとかこの理不尽な現実から逃れようと藻掻(もが)く。だが、吸盤のついた自分の腕が視界に入るたびに、自分がタコになってしまったという事実が容赦なく突きつけられる。

 『あ、そうだ。お父さんが言ってたの思い出した』

 ふと、タコ漁師だった父の日に焼けた横顔と、幼い頃に聞いた潮風混じりの言葉が、走馬灯のように脳裏をよぎった。

 「タコは一生に一回しか卵を産まないから、卵持ちのタコは逃がす」

 とか、なんとか。

 ハッとして、再び半透明の膜の向こうを見る。

 先ほどまで海鮮モンスターという恐怖の対象でしかなかった、巨大な母ダコ。よく見ると、その赤い体はひどく傷つき、ボロボロになっていた。きっと、何ヶ月も飲まず食わずで、外敵から私たち(卵)を必死に守り続けてくれていたのだ。

 『じゃぁ、このタコのおかぁさんも、もう死んじゃうってこと?』

 『えー、まだ会ったばかりなのに。相手、タコなのに。なんかめっちゃ悲しい』

 自分でも驚くほど、胸の奥がギュッと締め付けられた。ポロポロと涙が出そうになる(今の私に涙腺があるのかはわからないけれど)。

 人間の『山岸道子』としての理性なら、「タコが死ぬだけじゃないか」と割り切れるはずだ。

 『でも、なんか自然と受け入れられるなぁ』

 それが一番恐ろしかった。人間の私がタコのお母さんの死に同情しているのではなく、私の奥底にある何かが、当たり前の「家族への愛情」としてそれを受け入れている。

 『私、心もタコ?』

 人間の『山岸道子』としての自我が、じわじわと真っ黒な墨で塗りつぶされていくような、アイデンティティ崩壊の恐怖。私はたまらず、心の底から叫んだ。

 『あ〜嫌だよー! 茂くーん! 会いたいよー!』

 私が半透明の卵の膜の中で、愛しい婚約者の名前を叫びながらパニックを起こしていた、まさにその時だった。

 薄暗い海水の向こう側から、岩肌を滑るようにして、不気味な細長い影がぬるりと近づいてくるのが見えた。

 『えっ! なに! なんか来た! 蛇? いや、あれ、ウツボだ! 食べたらおいしいやつだ! いやいや、そんなこと考えてる場合じゃない、危ない、おかぁさん!』

 卵の中から放った私の警告が届くはずもない。ウツボの鋭い牙の並んだ凶悪なアゴが、卵を守って弱り切っていた母ダコの赤い体に、無慈悲に襲いかかった。

 バクっと噛みつかれ、スクリューみたいに回転しながら、おかぁさんはそのまま海の暗闇に引きずり込まれて消えていった。

 デスロールによって激しい水流が巻き起こり、私たちのいる卵の房がぐわんぐわんと大きく揺れる。

 あまりにも一瞬の惨劇だった。普通の人間の女性なら、目の前で起きた残酷な光景に絶叫し、ショックで気を失っていてもおかしくない。

 しかし、激しく泡立っていた海水が静まると同時に、私の中の『人間・山岸道子』のパニックは、スッと嘘のように引いていった。代わりに浮上してきたのは、どこまでもドライで冷酷な、海の生き物としての絶対的な本能だった。

 『あー、さよなら、おかぁーさん。あなたのぶんまで、わたしは生きるよ』

 私は吸盤のついた、どの手かわからないけれど、腕を振った。不思議と、その光景を自然の摂理として、もう受け止めていた。

 巨大なウツボによって引き起こされた水流が静まった後。

 私は暗い海の中で、不思議なほど冷静に現状を分析していた。感傷に浸っている余裕なんてない。タコとしての生存本能が、激しく警鐘を鳴らしているのだ。

 『なんだろー、とにかく生きなきゃ。これって、この袋、出られるのかな? チャレンジ!』

 思い切って、水風船のような薄い膜に頭を押し付けてみる。すると、プチッというかすかな感触と共に膜が破れ、これまでよりもずっと冷たくて重い「本物の海水」が全身を包み込んだ。

 『おおー、これもう出られるんじゃない? てか、もう出てる。兄弟姉妹たち、いるねー。うん? なんか、食べてない?』

 視界の先には、私と同じように膜を破って外の世界へ飛び出した、米粒みたいに小さくて半透明な赤ちゃんタコたちが、フワフワと無数に漂っていた。

 なんて可愛らしい光景……と思いきや、よく見ると彼らの小さな八本の腕が、お互いにぐちゃぐちゃに絡み合っている。

 『うおー!? やってるわー! あれ、兄弟姉妹で食い合ってるわー!』

 愛らしい丸い頭をしたまま、容赦なく互いの体をかじり合っている地獄絵図。ウツボを「自然の摂理」と受け入れた私でも、さすがに背筋が凍った。タコの世界の過酷なサバイバルは、卵を出た瞬間から始まっていたのだ。

 『これってやばくない? 私も餌として見られてる』

 周囲で血みどろのバトルを繰り広げていた無数の小さな目玉たちが、一斉にギョロリと私へ向けられた。タコとしての本能は「お前も食え」と囁いているが、そんな真似ができるはずがない。

 『逃げなきゃ! とりあえず、まだ人間の心あるうちは、共食いなんてできないよー!』

 私は漏斗(ろうと)からありったけの海水を噴射し、血で血を洗う兄弟たちの保育器から、猛ダッシュで暗い海へと逃げ出した。

 血みどろの保育器から猛ダッシュで離れながら、私は後ろを振り返った。

 『さよならー、兄弟たちー。なんだろ? 生まれたそばから食べ合ってる姿見ても、当たり前のように受け入れられる』

 普通なら吐き気を催すほどの惨劇なのに、私の心はどこまでもフラットだった。

 『あ〜混乱。でも、まだ兄弟を餌と認識しないだけ、まだまだ人間の残滓(ざんし)が……って』

 必死に漏斗から海水を噴射し、薄暗い海中を滑るように進みながら、私は自分自身の脳内で起きている異常事態に必死にツッコミを入れていた。

 『私、なんで自分がタコになったことや、結婚式で死んでしまった絶望をこんなに自然に受け入れてるの? これもタコ頭になったせい? とりあえず生きなきゃ』

 愛する茂くんとの結婚。人間の『山岸道子』としての私が死んでしまったという、本来なら発狂するほどの絶望。

 それすらも、八本の腕の根元にある神経回路から次々と送られてくる「泳ぐ快感のシグナル」によって、いとも簡単に上書きされていく。

 『あーすいーすいー、きもちいいー、あーしあわせー、あんまり進んでない気がするけど、まぁ、いっか!』

 冷たい海水を吐き出すたびに、弾かれたように体が前へと進む。軟体動物特有の流線型のフォルムが水を切る感覚は、人間時代には絶対に味わえない究極のオーガズムのようだった。

 私は完全にタコの身体的快楽に支配されかけていたが、ふと我に返る。

 『ハッ! いけないいけない。はぁ、この気持ち良さに身を任せていたら、そのうちなんかの捕食者に食べられてしまうわ。しかし、なんだろう』

 『タコにはタコの幸せがあるのね。幸せの感じ方はそれぞれなのねー』

 つい先ほどまで巨大なウツボの影に怯えていたはずなのに、大自然の揺りかごに抱かれた私は、妙な悟りを開いていた。人間の結婚も幸せだけど、この海との一体感も悪くない。

 目の前で繰り広げられた、あまりにも残酷な弱肉強食(じゃにくきょうしょく)の現実。巨大な母ダコの悲劇にショックを受けていたはずなのに、タコの体は悲しむ暇も与えずに、容赦なくエネルギーを要求してくる。

 『あーー! すいー、すいー、すいー。海きもちいいー、でも、泳ぐのつかれるわー、あーお腹空いたー、ふわふわー』

 冷たい海流に乗って漂う、不思議と心地よい浮遊感。悲壮感をあっさりと上書きしていく強烈な食欲と野生の本能に身を委ねながら、私はフワリと太い腕を広げた。

 かくして、すべてをあっさりと受け入れた私の、海での過酷で自由な新しい人生(タコせい)が本格的に始まろうとしていた。

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