間章 10
伯爵は息を切らしながら、私たちを探すように周囲を見回した。
アルジャーに目をやると、彼はまだ姿を現すつもりはないようで、鋭い視線は依然として伯爵に向けられていた。
アイリーンもアルジャーの決断を待っていた。張り詰めた空気が辺りを包み込み、私は息を呑むことさえ困難だった。
「……………………」
ハッ!
突然、アルジャーが動いた。体をひねり、私たちの位置の反対側へ移動した。アイリーンが動くなと合図したので、私はその場に留まった。
アルジャーは反対側へ移動すると、腰から小さなナイフを素早く抜き、伯爵に向かって放った。
えっ!
心臓が止まりそうになった。恐怖で叫びそうになったが、幸いにも手で口を覆った。
伯爵がどこからともなくナイフを取り出し、飛んできた刃を素早く受け流すと、もう一方の手で何かを投げ捨てたように見えた。
危ない!私は慌ててアルジャーの方を振り向いた。彼はどういうわけか再び動き、伯爵の反撃をかわしていた。
ガチャン――
アルジャーの短剣が音を立てて地面に落ち、かわされたはずのものはどこにも見当たらなかった。
この伯爵は本当に武術に長けているようだ。単なる偶然とは思えない。
ほんの数秒だったが、まるで数分が経ったように感じられた。目の前で繰り広げられる、生々しい武術劇。身の毛もよだつような、恐ろしい光景だった。
「隠れるな!ここにいるのは分かっているぞ!」伯爵は低い声で叫んだ。
……伯爵は大声で叫んだが、誰も反応しなかった。
私はアルジャーを見た。彼は伯爵をじっと見つめ、黙って考え込んでいるようだった。
アルジャーの指示がないため、アイリーンと私はその場に立ち尽くしていた。
「言われた通りにしました!他に何をしろと言うんですか!」
伯爵は誰かの命令で動いているのか?
アルジャーがそれ以上動かないのを見て、伯爵は周囲を見回した。
…
その場は静まり返った。
伯爵は突然声を荒げ、「今日は事故だったが、もう決まったことだ。婚約は今週末に行われる。計画は変更なしだ。安心していいぞ!」と言った。
計画だと?どういうことだ!
それを聞いて、私の心臓は激しく鼓動し、嫌な予感が的中した。
アイリーンも驚いた様子だった。私たちは視線を交わし、それからアルジャーを見た。彼は相変わらず伯爵をじっと見つめ、動じる様子はなかった。
私は胸を軽く押さえ、高鳴る感情を落ち着かせようとした。伯爵が誰のことを言っているのかは分からなかったが、アンナに近づくための策略を企んでいるのは間違いない。
「…」
誰も返事をしないので、再び緊張感が漂った。
しばらくして、鉄灰色の髪をした騎士が現れた。どうやら殿下の護衛の一人らしい。アルジャーに何かを囁くと、騎士はアルジャーの代わりに立ち、アルジャーはゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
アルジャーは私たちに動くなと指示した。その時、伯爵が突然こう言った。
「ああ……女神よ、我を守りたまえ……」
彼の突然の、真剣な祈りを見て、まるで何か罪を告白しているかのようだった。
……少し気まずい気持ちになった。
しかし……女神よ、我を守りたまえ?
我々の大陸では主に英雄王を崇拝しているが、女神信仰は北大陸の宗教だ。信仰の交流や伝承はあったものの、信者の数は依然として比較的少なく、実に驚くべきことだ。
しばらく考え込んだ後、まるで永遠のように感じられる時間が過ぎ、おそらく彼が知っていた人物がもうそこにいないことに気づいたのだろう、伯爵がゆっくりと立ち去るのを見送った。騎士たちがその後を追う。
…
「やっと去ったな」
伯爵が去っていくのを見送った後、アルジャーの言葉を聞いてようやく我に返った。手が汗ばんでいることに気づいた。想像していたよりもずっと緊迫した状況だったのだ。
ふう…
安堵のため息をつき、静かに息を吐いた。
伯爵は確かに計画、アンナへの意図的なアプローチについて話していた。もう何も言うことはないだろう。アンナの婚約は絶対に阻止しなければならない。
少し頭がすっきりしたので、アルジャーに今起こったことを尋ねようと思った。
「今、伯爵様…」
アルジャーは私の言葉を遮った。「相手は本当に何か企んでいるようだな。レティシア、どうしていつも危険な状況に巻き込まれるのか?」
アルジャーは疑わしげな目で私を見たので、私は笑顔でごまかすしかなかった。
「…私も理由は分からないけど、真相が分かった今、アンナにとっては良いことよ!これで婚約を正式に解消できるわ!」
結果がこれよ!分かってるでしょ?!
これ以上事態を悪化させるのが怖くて、私は笑顔を絶やさず、それ以上の説明はしなかった。
「そうだな…」アルジャーは頭を掻きながら、少し不安そうな顔をした。
「…レティシアさん。」
ああ…アルジャーまで何か疑い始めている!
アイリーンの方を向くと、彼女は直接は言わなかったものの、同じように困惑しているようだった。
私は笑顔を、笑顔を、さらに笑顔で続けた。
ああ、最近、笑顔を盾にしているみたいだ!
「まあ…あとはプロに任せて、何か証拠が見つかるか見てみましょう。」
アルジャーがそう言うと、私はすかさず「ええ…ええ!証拠が見つかって、アンナが婚約を正式に無効にできるといいですね!」と口を挟んだ。
「アンナ様がこの婚約を回避できたのは本当に幸運でしたね」とアイリーンは苦笑いを浮かべながら言った。
ふう…
どうやらこれ以上追及しないようだ。
しかし。
私は急に驚いた。アルジャーの性格からして、もっと彼と戦い続けるはずだったのに、彼は実に冷静に後から来た者たちに任せたのだ。
「…アルジャーに対する私の見方が変わりました!」
「え?」
「アルジャーはさっき、彼と戦う気さえなかったみたい。」
「…レティシア、私を何だと思っているんですか?あんな場所での喧嘩は、あなただって影響を受けるでしょう?」
アルジャーは私の頭を軽く叩いた。
ハッと気づいて、「…そうだ!」と叫んだ。
…アルジャーの言う通りだった。
驚いて額に触れると、軽く触れただけだったので、今は少しヒリヒリする程度だった。
「あの伯爵は確かに並外れた人物だ。本気で戦ったらどちらが勝つか、見当もつかない。」
頷いた。アルジャーがそう言うのなら、彼の判断は正しいのだろうと思った。
「ああ、でもさっきの膠着状態には、もう少しで我慢の限界だったよ。どうしようか迷っていたけど、幸いレイが助けてくれた。はは。」アルジャーは笑った。
アイリーンも笑った。「やっぱり兄さんね…」
アルジャーの言葉は、私の尊敬の念を一瞬にして打ち砕いた。
真剣に…さっき感じた尊敬の念を返してくれ!




