014 涙のわけ
ボールドウィン侯爵夫人の涙を目にして、私はどうしようと慌ててしまう。また夫人に、悲しませるようなことを自分が言ってしまったのだと後悔が押し寄せる。
「もっ、申し訳ありません!」
私は、ソファーから立ち上がって下げられる限り頭を下げた。
「エリーナ嬢、違うんだ。リリアンは、きっと嬉しくて涙を流しているんだ」
控えめだけれど、ボールドウィン侯爵のとても優しい声がした。ゆっくりと頭を上げると、ポロポロと涙を流す夫人に、ハンカチを出して優しく涙を拭う侯爵の姿が目に入る。
「エリーナ、大丈夫だから座って」
私の横から、エリオット様の優しい旋律のような声がする。まだ、よく意味が分からなかったけれど、言われた通り静かにソファーに腰を下ろした。
「ごめんなさい……ぐすッ。わたくしったら……」
静かにポロポロと涙を流すボールドウィン侯爵夫人の姿が、女神様のようで私の胸が静かに震えている。何かとても神聖な瞬間を見ているようで言葉が何も出てこなかった。
しばらく泣いていた侯爵夫人だったけれど、少し落ち着かれたのか、侯爵が差し出したハンカチを握りしめながら静かに語り出した。
「わたくしは、わたくしに似たエリオットのことを本当に申し訳なく思っていて……。どうして、夫に似て生まれてこなかったのだろうと何度思ったか……。生まれたあなたを見て、宝物だと思ったわ。でも、周りの反応はわたくしが思うよりもずっと悪くて……わたくしが甘く見ていたのだと凄く反省したの……」
侯爵が、侯爵夫人を自分の方に引き寄せて妻を守るように隣に寄り添う。夫人の言葉や、侯爵の妻を思いやる仕草に、私の胸が熱くなり鼻の奥がツンとする。
「エリオットを幸せにしたくて、一生懸命婚約者を探したりもしたわ。でも、近づいてくるのは下心を持った者たちばかりで……。わたくしはいくら何と言われても構わなかったけれど、エリオットが誰かに心無い言葉をぶつけられるたびに自分が許せなくて……。どうしたら、いいのだろうって希望を見つけられずにいたのよ」
侯爵夫人は、切なげにエリオット様を見つめる。
「……母上……」
エリオット様の声が、身を切るような母親の独白に悲しみを滲ませている。
「でも、エリオット。貴方は凄いわ。わたくしは、もっと自分の息子を信じるべきだったのね。エリーナ嬢の言う通りこんなに素敵な息子なのだもの、自分で運命の人を見つけてくるってわたくしは信じてあげれば良かったのだわ。エリーナ嬢、エリオットと出会ってくれてありがとう。わたくしまでも幸せにしてくれて、今日は人生で一番素敵な日になったわ」
目を真っ赤に腫らしたボールドウィン侯爵夫人が、月下の花が咲いたみたいにフワッと清らかで美しい笑顔を零す。私は、もうずっと心が揺さぶられて涙の粒が決壊しないのをギリギリで塞き止めている状態だった。
こんなに美しくて心が綺麗な人が、どうしてこんなに傷つきながら生きているのかと思うと心がつぶされそうだった。気づいたら、エリオット様とお互いの手をきつく握り合っていて、彼の心の振動が私にも伝わってくるみたいだ。
「母上、父上、お二人の子として生まれて僕はずっと幸せでした。でも、これからはもっと幸せになれそうです」
エリオット様が、私の顔を見て笑顔を零す。彼の瞳も赤く染まっていて、きっと私たち二人は同じような顔をしているのだろう。
「エリオット、良かったな。本当に良かった。私たちはこれで失礼するよ。リリアンを少し休ませたい。エリーナ嬢、突然呼びつけてこんな風になってしまって申し訳なかったね。またゆっくり遊びに来て欲しい」
侯爵様が、私に向かって頭を下げてくれた。侯爵夫人を大切にしている姿が、エリオット様と被る。きっと、エリオット様の優しさはお父様からきているのかもしれない。本当に、素敵なご夫婦で憧れてしまう。
「いえ、こちらこそお二人とお会い出来て本当に嬉しかったです。本日はありがとうございました」
二人は、私の目をみて丁寧に頷くと部屋を退出していった。パタンと扉のドアが閉まると、緊張が解けたのかフッと力が抜けた。
フーッと息を吐いて緊張から脱すると、手に温もりを感じる。ふと、自分の右手を見るとしっかりとエリオット様の手を握っている。ハッとして、手を抜こうとしたけれどエリオット様にガッチリ掴まれていてびくともしない。
「あのっ、エリオット様?」
彼の横顔を見ると、真剣な顔で何かを考えていた。そんな横顔も凛々しくて、見つめずにはいられない。
「エリーナ、今日はありがとう。疲れただろう?」
エリオット様が握っていた手を離して、私の方をみてちょっと心配そうな顔をしている。彼の手のぬくもりがなくなってしまうと、それはそれで少しだけ物足りなさを感じた。でも恥ずかしいから、その気持ちは隠すようにできるだけ元気に答える。
「いえっ。大丈夫ですよ。エリオット様のお父様とお母様、本当に素敵でした。お会いできて良かったです」
本当は、今日は心動かされることが多くてちょっと疲れていたけれど……。でも、心配をかけたくなくてちょっと強がってみる。私の言葉に嘘が隠れているのがわかったのか、エリオット様は憂いを帯びた顔をしている。
(本当に大丈夫なのに……)
スッとエリオット様が手を、私の後頭部に回してきた。何だろうと思ったら、頭をエリオット様の方に引き寄せられ、いつもみたいにおでこをくっつけられる。
「……ル……ㇰㇲ…。レパル……ティ……。セㇽ……ㇻ 」
あの、王宮で行われた夜会の夜と同じように、黄色い光が現れ温かい風が頬に当たる。何だか心が軽くなった気分になる。
「このまま、君を返したくない」
おでこをくっつけた状態で、エリオット様が小さな声でつぶやく。
「えっ?」
私は、黄色い光に気を取られていて小さすぎる声をとらえることができなかった。今なんと? と聞こうとして、エリオット様の目と私の目が合う。あまりの至近距離に、私の体は固まった。少しでも動いたら、唇が重なりそうな距離。時が止まったみたいに見つめ合ったままでいたら、エリオット様の顔が迫ってきたので、ゆっくり瞼を閉じた。
――――トントン。
「エリオット坊ちゃま、そろそろお帰りの――失礼いたしました」
出迎えてくれた執事の声にびっくりした私は、瞬間的にエリオット様から距離を取った。
(私、今、何をしようとした?)
私の顔は、お風呂上がりのように真っ赤だったと思う。
「じいめ……」
何が起こったのか理解できなかった私は、エリオット様が漏らした言葉なんて全然耳に入ってこなかった。
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