第22話 止血できなかった夜
事件は、俺のいない場所で起きた。
夜半。
王都南区、再審請求の受付所近く。
小規模な集まり。
掲げられた紙。
整った言葉。
いつも通り――のはずだった。
「……押すな」
「後ろ、詰めすぎだ」
誰かが声を上げ、
別の誰かが苛立ち、
その間に、治安兵が割って入った。
「下がれ」
「命令だ」
言葉は短く、強かった。
次の瞬間。
誰かが転び、
誰かが支え、
誰かが叫んだ。
――殴った。
――殴られた。
刃物は、なかった。
だが、石畳は硬い。
一人が倒れ、
血が流れた。
それだけで、十分だった。
翌朝。
報告は、机の上に積まれていた。
「……負傷者、五名」
「うち一名、重体」
トーマの声が、震えている。
「誰だ」
「再審請求の通過者です」
胸の奥が、冷たくなる。
「……名前は」
聞いた瞬間、思い出した。
最初の通過者。
整った文章を書いた青年。
「……彼か」
希望の象徴。
制度の成功例。
その体が、今は病院のベッドにある。
「治安局は?」
「正当防衛を主張しています」
それも、制度上は正しい。
だが。
「抗議側は?」
「……怒っています」
当然だ。
昼前。
ミレイユから、面会の要請が来た。
通された応接室。
彼女は、立ったまま、頭を下げなかった。
「……起きましたね」
「ああ」
「あなたの線は」
静かな声。
「守られませんでした」
否定できない。
「暴力は、止めたかった」
「止めたでしょう」
彼女は、即答する。
「だから、余計に」
「彼らは、信じた」
胸が、軋む。
「信じた結果が」
「これです」
沈黙。
「……ミレイユ」
「君は、どうする」
問いかけると、
彼女は、初めて目を伏せた。
「まだ」
小さな声。
「考えています」
だが、続けた。
「でも」
顔を上げる。
「もう、“試す”段階ではありません」
それは、宣言だった。
「声が、血を流した」
「ここからは、責任の話です」
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「責任は、私にある」
「いいえ」
彼女は、首を振った。
「あなた一人の責任ではありません」
「ですが」
一拍置く。
「あなたが、中心にいる」
それは、責めではない。
事実の確認だ。
その日の夕方。
王城から、正式な通達が下りた。
『再審請求制度の試験運用を、一時停止する』
『治安維持を最優先とする』
早かった。
あまりにも。
エドガーの執務室に呼ばれる。
「……予想通りです」
彼は、淡々と言った。
「血が流れれば」
「制度は、止まる」
「止めたのは、あなたですか」
「いいえ」
首を振る。
「“現実”です」
机の上に、別の書類が置かれる。
「あなたは」
彼は言った。
「もう、調整役ではいられない」
「どういう意味だ」
「選びなさい」
指が、二つの書類を示す。
「教育行政の中枢に入る」
「あるいは――」
一拍。
「全てから、外れる」
どちらも、罰だ。
夜。
一人、宿舎に戻る。
机の上には、未開封の手紙があった。
差出人は、辺境伯領。
封を切る。
『学校は、続いています』
『静かですが、確実に』
短い報告。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
同時に、痛む。
俺は、止血しようとした。
線を引こうとした。
だが――。
教育が生んだ声は、
俺の手の届かない場所で、血を流した。
もう一度、問われている。
**制度の内側に入るのか。**
**それとも、外に立つのか。**
次に選ぶ一手で、
俺は、完全に“役割”を失うか、
完全に“国家の人間”になる。
その分岐点に、
俺は、はっきりと立たされていた。
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