第2話 夜学を作ろう
夜の領政庁は、昼とはまるで違う顔をしていた。
昼間は役人や兵士が行き交い、雑多な音に満ちているこの建物も、日が沈めば静まり返る。石造りの廊下に、俺の足音だけが小さく響いた。
その一室に、数人の大人が集まっている。
役人が二人。年配の書記が一人。そして、腕を組んで壁にもたれている大柄な男が一人――元傭兵だというガルドだ。
全員、どこか居心地悪そうだった。
「……本当に、ここでいいのか?」
ガルドが低い声で言う。
「酒場のほうが落ち着くんだがな」
「酒場だと、人が集まりすぎます」
俺は机の上にランプを置き、火を灯した。
「今日は様子見です。人数は少ないほうがいい」
そう言ったものの、内心では分かっていた。
集まらない理由は、場所でも時間でもない。
――大人が、学ぶ必要がないと思っているからだ。
俺の前世でも何度も見た。
「今さら勉強しても意味がない」
「どうせ変わらない」
その諦めが、一番根深い。
「坊ちゃま」
年配の書記、アーネストが口を開いた。
「本当に、字から教えるのですか? 計算や法律ではなく」
「はい」
即答した。
「字が読めなければ、何も始まりません」
アーネストは少しだけ目を伏せ、うなずいた。
「……そうでしょうな」
彼は元々、神殿で書記をしていた人間だ。文字の価値を、誰よりも知っている。
最初の生徒は、五人だった。
農民が三人。年はまちまちだ。
十歳そこそこの少年と、四十を過ぎた男。
そして、ガルド。
全員、緊張している。
「……俺が言うのもなんだが」
ガルドがぼりぼりと頭を掻いた。
「剣なら教えられるが、字はなあ……」
「逃げてもいいですよ」
俺が言うと、彼は目を見開いた。
「いいのか?」
「はい。強制じゃありません」
少し間があって、ガルドは鼻で笑った。
「なら、残る。逃げられると思うと、逆に気になる」
その反応に、思わず笑いそうになる。
「では、始めましょう」
俺は木炭で書いた大きな板を掲げた。
「これは、“あ”です」
最初は、ひらがなに相当する簡易文字。
この世界の正式な文字体系は複雑すぎる。まずは音と形を結びつける。
「線を、三つ。覚えることはそれだけです」
農民の一人が、恐る恐る手を挙げた。
「坊ちゃま……」
「なんですか」
「間違えたら、怒られますか?」
一瞬、言葉に詰まった。
ああ、そうだ。
彼らにとって“学ぶ”とは、“失敗して叱られる”ことなのだ。
「怒りません」
はっきり言った。
「間違えるために、来ているんです」
場の空気が、少しだけ緩む。
板に書かれた線を、皆が真似る。
歪でもいい。順番が違ってもいい。
「……これで、いいのか?」
ガルドが、太い指で紙を指す。
そこには、形は崩れているが、確かに“あ”があった。
「はい。完璧です」
「は?」
「読めますから」
その瞬間、ガルドの目が見開かれた。
「……俺の書いた字を、読めるのか?」
「ええ。読めます」
沈黙。
次の瞬間、彼は笑った。
声を上げるでもなく、ただ、肩を震わせて。
「……そうか」
それ以上、何も言わなかった。
夜学は、三日続いた。
五日目には、人数が八人になった。
十日目には、十五人。
誰も宣伝などしていない。
だが、噂は自然に広がった。
――字が読めるようになる。
――役人に騙されなくなる。
――自分の名前が書ける。
ある夜、父が様子を見に来た。
教室の隅で、腕を組んで黙って見ている。
生徒たちは緊張したが、父は何も言わなかった。
授業が終わり、人が引いたあと。
父は、机の上に残された紙束を手に取った。
「……これは?」
「今日の出席と、簡単な計算結果です」
父は目を走らせ、眉を上げた。
「数字が……揃っているな」
「はい。全員、自分で書きました」
しばらくの沈黙。
やがて、父は低く言った。
「帳簿を持ってこい」
役人が慌てて、例の税帳簿を運んでくる。
父は見比べ、すぐに気づいた。
「……誤差が、減っている」
「読み書きができれば、確認できますから」
父は、俺を見た。
その視線には、驚きと、警戒と、そして――確かな期待が混じっていた。
「リオ」
「はい」
「これは、遊びではないな」
「はい。武器です」
父は、ゆっくりとうなずいた。
「……続けろ」
その許可は、何よりも重かった。
だが同時に、分かっていた。
これは始まりにすぎない。
字を教えるだけで、ここまで変わるなら。
――これを恐れる者が、必ず現れる。
夜学の灯りは、静かに、しかし確実に広がり始めていた。




