第1話 文字の読めない辺境伯領
剣と魔法で世界を救う話ではありません。
文字が読めないことが、
どれほど人の可能性を奪うのか。
そして、教育が、
人を救いもすれば、
誰かを切り捨てることもあるという話です。
派手な奇跡は起きません。
あるのは、少しずつ積み上がる変化だけ。
それでも――
教えることを、やめなかった人間の物語です。
目を覚ました瞬間、違和感があった。
天井が高すぎる。白い漆喰に、木製の梁。病院でも自宅でもない。何より、身体が軽い。妙に小さい。
「……?」
声を出そうとして、さらに気づく。声変わり前の、子供の声だった。
混乱が一気に押し寄せる前に、記憶が流れ込んできた。名前、家系、立場。そして――前世。
俺はリオ・アルヴェイン。辺境伯家の嫡男。年齢は十歳。
そして同時に、前世では日本の地方自治体で働く公務員だった。
教育委員会と財政課を行ったり来たりしながら、予算と制度に振り回される日々。理想と現実の間で折り合いをつけ続けた人生。
……ずいぶん、妙なところに来たものだ。
「坊ちゃま?」
扉が控えめに叩かれ、侍女が顔を覗かせる。慣れた仕草で頭を下げる姿に、ここが夢ではないと理解した。
数日後。
体調が戻ったという名目で、俺は父――辺境伯エルナ・アルヴェインに同行し、領地視察に出た。
馬車の窓から見えるのは、荒れた畑と古い家屋。人はいるが、活気がない。
「……思ったより、厳しいな」
思わず漏れた言葉に、父は苦笑した。
「数字で見れば分かる。だが、実際に見ると余計に来るものがあるだろう」
その“数字”を、俺はこのあと知ることになる。
領政庁で帳簿を見せられたとき、思考が一瞬止まった。
「……これは?」
「去年の税収記録だ」
父は淡々と言う。だが、俺の目には異様に映った。
文字が、汚い。
いや、それ以前に、揃っていない。桁も、書式も、記録者の名前すら曖昧だ。
「誰が、これを書いたんですか?」
「分からん。恐らく複数人だ」
「……読めているんですか?」
沈黙。
父だけでなく、同席していた役人たちも目を逸らした。
「正確には……“慣れている”というべきか」
胸の奥が冷えた。
役人の一人が言う。
「前からこうでしたので。多少の誤差は勘で調整しています」
「多少、とは?」
「……年によります」
つまり、誰も正確な数字を把握していない。
さらに村を回って、決定的な事実を知った。
農民たちは契約書を読んでいなかった。
というより、読めなかった。
「ここに何が書いてあるか、分かるか?」
俺が紙を見せると、老人は困ったように笑った。
「字は、分からねえ。役人さんが読んでくれる」
嫌な予感が、確信に変わる。
領地に戻った夜、父の執務室を訪ねた。
「父上。この領地……文字が読めない人間が多すぎます」
「ああ。八割以上だ」
即答だった。
俺は言葉を失った。義務教育も、識字教育もない世界。だが、ここまでとは。
「優秀な人材がいないから、領地が貧しいのですか?」
問いかけると、父は首を振った。
「違うな」
そして、静かに言った。
「優秀な者がいないのではない。育てていないだけだ」
その一言で、すべてが繋がった。
前世で何度も見た光景。能力不足と切り捨てられた現場。だが、教育と仕組みがあれば、人は変わる。
この世界でも、それは同じだ。
「……父上。提案があります」
俺は深く息を吸った。
「まずは、小さく始めましょう。夜学を作ります」
「夜学?」
「子供だけでなく、大人も対象にします。読み書きと、簡単な計算だけでいい」
役人たちの顔が引きつる。
「坊ちゃま、大人に勉強は……」
「字を覚えて、何になるというのですか」
反論は想定内だった。
俺は帳簿を机に置き、指で叩いた。
「字が読めないから、この帳簿が嘘をつくんです」
「字が読めないから、契約が守られない」
「字が読めないから、有能な人間が埋もれる」
そして、はっきり言った。
「字が読めないから、何にもなれないんです」
沈黙。
父が俺を見つめ、やがて口角を上げた。
「……面白い」
その一言で、すべてが動き出した。
この領地に足りないのは、魔法でも軍隊でもない。
――文字だ。
そう確信した瞬間、胸の奥で何かが燃え始めていた。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
当面の間は、1日に3話を投稿予定です。
ブックマークをして、続きを楽しみにお待ちいただけると嬉しいです。




