第3話 最初の成果
夜学が始まってから、二週間が過ぎた。
数字にすると短い。だが、領政庁の空気は、確実に変わり始めていた。
「……坊ちゃま、少しよろしいでしょうか」
昼下がり、書記のアーネストが珍しく戸惑った表情で声をかけてきた。
「どうしました?」
「その……帳簿のことで」
嫌な予感はしなかった。むしろ、来るべきものが来た、という感覚に近い。
執務室に広げられたのは、税収記録と倉庫の在庫表だった。
以前なら、誰も細かく見ようとしなかった紙束。
「ここを見てください」
アーネストが指さしたのは、穀物倉庫の記録だった。
「先月分の搬入量と、保管量が合いません」
「どれくらいですか」
「……三割ほど」
三割。
誤差ではない。明確な不一致だ。
「今までは?」
「“例年こんなものだ”で済まされていました」
つまり、誰も読めなかったから、誰も疑わなかった。
俺は静かに息を吐いた。
「確認しましょう。現物と」
倉庫に向かうと、責任者の男が慌てて出てきた。
「な、何か問題でも?」
「帳簿と在庫が合いません」
「そ、それは……運搬時のロスが……」
「三割も?」
男は黙り込んだ。
そのやり取りを、少し離れた場所から見ている人影があった。
夜学に通っている農民の一人だ。
彼は、恐る恐る近づいてきて、俺に紙切れを差し出した。
「坊ちゃま……これ」
「?」
そこに書かれていたのは、彼自身が写した簡単な記録だった。
日付、搬入量、担当者。
字は歪だが、意味は通じる。
「……自分で書いたんですか?」
「はい。教えてもらったとおりに」
その瞬間、確信した。
これはもう、戻れない。
「倉庫長」
俺は男を見据えた。
「説明してください。帳簿と、現物と、この記録の違いを」
沈黙が落ちた。
数刻後。
倉庫長は拘束され、事情聴取が行われた。
結果は、単純だった。
長年にわたる横流し。
数字を誤魔化し、誰も気づかなかった。
「……こんなことが」
父は、報告を聞いて眉を押さえた。
「今まで、見えていなかっただけです」
俺は淡々と言った。
「文字と数字が読めなければ、確認できません」
その日の夕方、夜学に一つ変化があった。
生徒が、二十人を超えた。
「倉庫の件、本当か?」
「字が読めたから、気づいたって……」
噂は、驚くほど早い。
だが、良い話ばかりではなかった。
翌日。
夜学の扉に、汚れた文字で書かれた紙が貼られていた。
『身の程を知れ』
『余計なことをするな』
誰かが、読める文字で、脅してきた。
ガルドが紙を剥がし、鼻で笑った。
「読めるようになったから、分かる。分かりやすい脅しだな」
「ええ」
俺は紙を受け取り、折り畳んだ。
「つまり、効いている」
敵が、姿を見せ始めた証拠だ。
夜。
執務室で、父と向き合う。
「続けるのか」
問いは、短い。
「はい」
迷いはなかった。
「もっと、はっきりした抵抗が来るぞ」
「承知しています」
父は、しばらく黙り込んだあと、低く笑った。
「……面白い。ここまで来たら、とことんやれ」
その言葉は、後押しであり、覚悟を求めるものでもあった。
夜学の灯りは、もはや小さな実験ではない。
――既に、領地の歯車を狂わせ始めている。
そして、狂った歯車は、必ず誰かの指を噛む。
それが誰になるのか。
この時点では、まだ誰も知らなかった。
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