第16話 条件付きの署名
署名を前にして、時間だけが過ぎていく。
机の上に置かれた書類は、薄い。
だが、その紙切れ一枚が、何人もの進路を決める。
俺は、ペンを取らなかった。
代わりに、別の紙を引き寄せる。
「……追加条項」
そう呟きながら、文字を書く。
『進級停止対象者については、再評価期間を設けること』
『家庭環境・健康状態を含む補助調査を必須とする』
『現場教師による推薦がある場合、再試験を認める』
完璧ではない。
だが、何もせずに切るよりは、ましだ。
ノックの音。
「入ってくれ」
トーマが、再び姿を現した。
書類を見て、眉をひそめる。
「……これは」
「条件だ」
「エドガー殿が、認めるとは思えません」
「承知している」
だからこそ、意味がある。
「トーマ」
「君は、正しい仕事をしている」
彼は、少し驚いた顔をした。
「だが」
言葉を続ける。
「正しい仕事が、正しい結果を生むとは限らない」
沈黙。
「これは、現場を信じるということですか」
「そうだ」
教師と、子供を。
数字だけでは測れない部分を。
トーマは、しばらく書類を見つめ、
やがて、静かに言った。
「……提出します」
「却下される可能性は高い」
「それでもいい」
彼は、頷いた。
午後。
エドガーの執務室。
追加条項に目を通した彼は、
予想通り、即座に言った。
「非効率です」
「承知しています」
「例外を作れば、制度は歪む」
「既に歪んでいる」
言い切ると、彼は一瞬だけ言葉を失った。
「切り捨てを前提にした教育は」
「教育ではなく、選別装置です」
「国家には、選別が必要だ」
「なら」
一歩、踏み込む。
「誰が、いつ、何を基準に切るのか」
「それを、曖昧にしたままではいけない」
エドガーは、腕を組んだ。
「……あなたは、制度を信じていない」
「違う」
首を振る。
「制度を、万能だと思っていないだけだ」
長い沈黙。
「この条件は」
彼は言った。
「前例になる」
「なればいい」
即答だった。
「前例がなければ」
「制度は、変われない」
エドガーは、しばらく考え込み、
やがて、淡々と言った。
「……限定的に、認めましょう」
「試験的措置として」
胸の奥が、わずかに緩む。
「ただし」
「結果が出なければ、撤回します」
「構いません」
結果を出す責任は、俺が引き受ける。
夕方。
署名を終えた書類が、回覧に回された。
完全な拒否ではない。
完全な服従でもない。
――中途半端な選択。
だが、それが今の俺の立ち位置だった。
その夜。
王都の外れで、トーマが言った。
「……俺は」
言葉を探す。
「今日、初めて迷いました」
「それでいい」
即答する。
「迷わなくなったら」
「君は、もっと多くを切る」
トーマは、黙って頷いた。
宿舎に戻り、一人になる。
条件付きの署名。
守れた者もいる。
それでも、切られる者は出る。
これは、勝利ではない。
敗北でもない。
ただの、延命だ。
だが――。
制度の中に、わずかでも“考える余地”を残した。
その余地が、次に繋がるかどうかは、まだ分からない。
俺は、窓の外を見た。
王都の灯りは、整然として美しい。
だが、その下で揺れる影は、確かに増えている。
教育は、もう戻らない。
ここから先は、
**制度の内側で、どこまで人を守れるか**の戦いだ。
そしてそれは、
俺一人で背負える規模では、もうなかった。




