第150話 様やめてね?
荻窪町子の記憶にある一番古い記憶は、悪臭漂うゴミまみれの部屋と、ゴミの中で動かなくなった弟の体。
真夏だったはず。
3歳の誕生日を迎える直前に弟は死んだ。
私を襲ってた飢えと渇きはその事に意識を割かせる事すら許さなかった。
それでも飢えは耐えられた。でも渇きだけはどうにもならなかった。
祈るような気持ちで何度も蛇口を捻ったような気がする。でも水は出なかった。便器に顔を突っ込んで水を飲んだ。
そのうちトイレに這って行く体力も気力も無くなった時、私は腐臭漂う弟の体を抱きしめた。
ごめんね。お姉ちゃんなのにごめんね。
何度も繰り返した気がする。
私が息絶える前に大人達が部屋に来て、私は死ねなかった。
母は最後まで帰ってこなかった。
父が誰なのかは今も知らない。
親の居ない子供達の暮らす施設に私は詰め込まれた。
「ここではみんなが家族よ」
施設の人は口癖のように繰り返す。
お母さんは?お母さんに会いたい。
私が泣くと大人達はみんな困った。
つまり私は一人ぼっちになったんだなって、しばらくして理解した。
施設の職員さん、ひとつ屋根の下暮らした子供達。彼らには感謝しかない。
ゴミの中で死んでいくしかなかった私を助けてくれた全ての人への感謝は今も忘れない。
でも、私が同じ境遇の子供達との暮らしや、優しい大人達の温もりや、温かい布団の安らぎに身を沈めようとすると、いつも瞼の裏に弟が現れた。
弟は何も言わなかった。ただ間近から私を見つめてるだけだった。
その理由を考えて考えて、ようやく分かった。
弟は死んだからだ。
死人が喋るわけがない。
私が見てるはあのゴミの中で冷たくなった弟を抱きしめていた、あの時の光景。
濁った弟の目を見つめながら、土気色になっていく肌に触れながら、何度も謝り続けたあの日の記憶。
母が最後に出て行ってどれくらい経った頃だろう。
母が作っていったご飯を食べ尽くして、冷蔵庫の中身を食べ尽くして、食べられないものも口に入れて…
最後に残ったカビと生ごみにまみれたパン屑を、ぐずる弟を無視して私は貪った。
あれを食べさせていれば…弟は助かったんじゃないか?
幼心に染みついた罪の意識は十字架になって心臓に食らいついて、私が新しい家族との安らぎを求める時、決してそれを許さなかった。
それは当然の事で、私は生涯弟からの呪詛に許しを請いながら生きていくんだと…
思ってた時に私の前に『ぽいずんちゃん』は現れた。
誰かと触れ合おうとしたら現れる弟の呪いに、私は誰との交流を拒んで、孤独に生きていこうと誓った。
初めて触れたインターネット。そこで出会ったかわいい女の子。
『さいたまシスターズ』というそのY〇uTuber達は友達同士で楽しそうに遊んでる光景を私に見せてくれた。
私には決して許されないどこにでもある光景を見せてくれた。
触れる事の出来ない画面の向こうの彼女達を観ていると救われた。『さいたまシスターズ』の動画は、その中に自分も居るような気にさせてくれたから。
決して触れる事の出来ない画面の向こうのお友達だからか…彼女達と過ごす時間だけは、安らかな気持ちになれるのに、弟の顔は思い浮かばなかった。
……私もこの子達と少しでも仲良くなりたい。
弟を殺した私に普通の幸せが許されないのは分かってた。
それでもそんな思いに駆られた私はコメントを書いてた。
返信はなかった。
何度も、新しい動画が投稿される度に何度も書いた。
返事はなかった。
何万人という人が観てるチャンネルの、ただの一リスナーに過ぎない私に反応があるわけない。
私は画面の向こうから彼女達を眺めて一緒に遊んでる気分に浸る。それだけで満足だった。幸せだった。
いつもコメントありがとう。いつも読んでるよ。
初めて返信があった時、私にはそれが誰がくれたものかすぐ分かった。
『さいたまシスターズ』のメンバーは一人を除いてコメントへの返信はおろか、そもそもコメント欄のチェックなんてしないのはファンの中では周知の事実だったから。
荻窪町子が『ぽいずんちゃん』に話しかけてもらえた日だった。
あの日私は…弟の許してくれる、触れられない、画面の向こうの友達と、初めて繋がれた。
そのたった一回だったけど…
救われた。
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つまらない映画が終わって外に出たら雲の合間から陽の光が差してた。
ほんの一瞬でまた雲に呑まれていったけど、一瞬差した陽の光の暖かさは確かに感じられた。
寒波はどっか行っちゃったのかもしれない。
直に雲も晴れてこの凍りついた地面も溶けていくんだろう。
隣に立ってる琴音様は大きく伸びをひとつして同じように空を見上げてた。
「実はあの映画二回目なんだよね」
「あっ。そうなんですか」
「内容が違った気がする……」
「そんな事あります?」
「どっちも面白くなかった……」
帰ろっか。琴音様はそう言った。
画面の向こうのお友達…今はその人が隣に立って歩いてる。手を伸ばせば触れられる距離に、確かに存在してる。
吐息も体温も感じられる距離に。
手を伸ばせば触れられてしまう距離に。
映画館で触れてもらった手にはまだ温度が残ってた。
…もし、今度はこの手に私から触れたら、弟はまたあの目で私を睨むだろうか…?
「なんか急に暑くなってきたね」
ふざけたビックフットのマスクを脱いだ琴音様が空を見上げながら笑ってた。その横顔と、花の色みたいに綺麗な金髪が再び落ちてくる陽光に当てられてキラキラ輝いてる。
雲が溶けていくみたいに散ってって、真っ白なお日様が空色のキャンバスの中で私を見下ろした。
私が思うより早く雪は溶けるのかもしれない。
「……」
「電車動いてんのかなー…」
隣を歩く琴音様のプラプラ揺れる手のひらに恐る恐る触れてみる。
指先が触れた時、琴音様の顔が弾かれたようにこっちを見て、慌てて引っ込めた。
……推しとファン。その距離感。それは肩の触れ合う距離にいても遠いものであるべきだ。
出過ぎた願望に顔から火が出そうになる。
「すすすすすすすみませせせんっっ!!いやっ!わざとじゃなくてぇっ!!!!」
「……」
琴音様……そんなにこっちをじっと見ないで……
立ち止まって見つめてくる琴音様《推し》の手が少し無理矢理に私の手を握ってきた。
心臓がぁぁ!!!!
「琴音様ぁぁぁぁっ!?!?」
「ファンサ」
「ふぁーーーーーーっっっ!!!!」
神様お天道様違うんですっっ!!私はそんな…ファンとしての分を弁えない愚か者では……
……
…………
………………
弟の顔は……浮かばなかった。
……あの子はもう、私を呪う事すらやめてしまったんだろうか……?
それとも……『TRY AGAIN』のみんなと出会った事が、私から弟を…大事な事を忘れさせてしまったんだろうか…?
「はぁとちゃん」
「はいぃっ!?」
「……やっぱりカラオケでも行こうか?ライブ近いし歌、教えてほしいんだ」
「……ふぁ?」
あの時欲しかった友達って、きっとこんなふうに…
……いや。
それ以上は望むまい。
「……あ、はい…いいんスか?琴音様」
「うん。様やめてね?」




