極点の視座と焦熱の雨
「――待ちなさい、二人とも!」
月明かりの下、寝間着の上に薄い上着を羽織っただけのユーリが、肩を激しく上下させて立っていた。その瞳には、大切な家族を危険にさらすことへの激しい憤りと、隠し事をされていた悲しみが混ざり合っている。
「マリアンヌさん! 何度も何度も、リンネをこんな夜中に連れ出して……! エルウィンの王子だからって、彼を死地に向かわせるのが貴方の忠義なんですか!?」
「ユーリ、違うんだ。これは僕の――」
「リンネは黙ってて! 十歳の子供が、帝国の輸送部隊を相手にするなんて正気の沙汰じゃないわ!」
マリアンヌは深く頭を下げた。かつてのエルウィン王国騎士としての矜持と、ユーリの正論に対する申し訳なさが彼女を沈黙させる。だが、リンネは静かに歩み寄り、一六五センチの背丈をユーリと合わせるように、その肩に手を置いた。
「ユーリ、聞いて。これはマリアンヌに強制されているわけじゃない。僕自身の意志だ。それに……」
リンネはわずかに口角を上げ、月光を反射する瞳で彼女を見つめた。
「ボクが敵の剣が届くような場所まで近づくと思う? 僕の戦いは、敵が僕の存在にすら気づかない『遥か遠方』で完結する。泥臭い格闘なんてしないさ。約束する、決して危ない真似はしない」
「……本当? 本当に、絶対に近づかない?」
「ああ。ボクの『ルール』からは、誰も逃げられないからね」
ユーリの強張っていた肩が、わずかに緩む。マリアンヌはそれを見届けると、騎士の礼を尽くしてユーリに誓った。
「ユーリ様。我が命に代えても、リンネ殿下の髪の毛一本傷つけさせぬことを、この魂にかけてお約束します」
◇◇◇◇◇
王都から離れた、敵輸送部隊の移動ルートを見下ろす断崖絶壁。
リンネは黒装束のまま、静かに精神を集中させる。眼下を通る道までは数キロの距離がある。
「マリアンヌ、敵は?」
「あと三分で、この峡谷の入り口に差し掛かります。数は馬車十、兵士五十」
リンネは右手を前方にかざした。魔力探知を避けるため、彼は一切の「魔力」を放出しない。ただ、そこに存在する物理現象を書き換える。
「『支配空間』――定義:屈折率の勾配構築。」
リンネは空間内の空気密度を精密に調節し、巨大な「空気の凸レンズ」を虚空に作り出した。遥か先から届く微弱な光を屈折させ、自らの網膜へと収束させる。
「……見えた。輸送馬車の樋爪の音、騎馬の配置……すべて丸見えだ」
光学望遠鏡すら凌駕する解像度で敵を捉えたリンネ。彼は続けて、両手の間に小さな「球体」を定義した。
「次は、化学の理を。――ナフテン酸とパルミチン酸のアルミニウム塩、そしてガソリンの混合」
それは魔法の炎ではない。現代兵器における最も残酷な発明の一つ――ナパーム弾の合成だ。
「重力加速度、定義変更。……そして、自由落下へ」
リンネが指を弾くと、虚空に生成された高粘度の燃料塊が、ルールスペースを抜けて敵部隊の頭上へと解き放たれた。
――爆ぜろ。
直後、峡谷は地獄の業火に包まれた。
単なる火炎魔法とは異なり、粘りつく燃料は装甲を舐め、兵士たちの叫び声と共にすべてを焼き尽くしていく。水では消えず、酸素を奪いながら燃え続ける、物理の極北。
「……目標、完全に沈黙」
燃え盛る炎を、リンネはどこまでも冷ややかに見下ろしていた。
「さて、マリアンヌ。帰ろうか。明日からは、平穏な『魔法学校』の生徒にならなきゃいけないんだから」
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