■第9話 守れるもの
未来のために勉強する。
そう決めたはずだった。
けれど、どれだけ先を見ていても、
目の前で起きることを見逃してしまえば意味がない。
この人生で、俺は何を守れるのか。
その答えを、少しだけ知ることになる。
小学生の時間は、思っていたより早く過ぎていった。
最初は長く感じていた。
授業は簡単で、同級生との会話もどこか噛み合わない。
当然だ。
こっちは中身が五十歳の男で、周りは本物の子供たちだ。
けれど、慣れてしまえば悪くはなかった。
朝起きて学校へ行く。
帰って宿題をする。
英語教室へ通い、ピアノの練習をする。
夜は親に隠れて少し先の勉強を進める。
人生で、これほど真面目に勉強したことはなかった。
前の人生の俺――黒沢恒一は、勉強が得意な方ではなかった。
嫌いではなかったが、努力を続ける根気がなかった。
何かを始めても、途中で面倒になってしまう。
そして大人になってから、あの時もっとやっておけばよかったと後悔する。
そんなことばかりだった。
だが、今は違う。
やり直している。
そう思うだけで、不思議と机に向かえた。
中学受験も、その流れで決めた。
由香里は最初、少し驚いた。
「徹、本当に受験したいの?」
「うん」
「大変よ?」
「やる」
理由を聞かれても、うまく説明はできない。
いい大学へ行きたい。
将来の選択肢を増やしたい。
いつか自分の力で何かを始めたい。
小学生がそんなことを言えば、逆に不自然だ。
だから俺は、ただ「やってみたい」とだけ言った。
泰造は相変わらず仕事人間だった。
帰りは遅く、休日も疲れた顔をしていることが多い。
けれど受験の話をした時だけは、新聞から目を上げて俺を見た。
「自分で決めたのか」
「うん」
「なら、最後までやれ」
それだけだった。
冷たいようにも聞こえる。
だが、泰造なりの応援なのだと思った。
姉の優子は、その頃にはもう高校生になっていた。
幼稚園の頃、俺の顔を覗き込んで「かわいい」と言っていた姉は、すっかり年頃の少女になっていた。
髪型を気にし、服を気にし、父親にはやたら冷たい。
「優子、帰りが遅いぞ」
「うるさいな。友達といただけ」
「口の利き方があるだろう」
「はいはい」
泰造は眉間に皺を寄せるが、そこで深く踏み込むことはなかった。
仕事で疲れているのもある。
それに、娘との距離の取り方が分からないのだろう。
由香里は気づいていたと思う。
優子の帰りが遅くなったこと。
電話が来ると少し声の調子が変わること。
出かける前に鏡を見る時間が長くなったこと。
たぶん、彼氏がいる。
それ自体は悪いことではない。
高校生なら、そういう時期もある。
ただ、俺は少し気になっていた。
優子の笑顔が、以前より少し硬い。
楽しそうにしているのに、どこか無理をしているように見える。
悪い人間に引っかかっていなければいいが。
そんなことを考えながらも、俺自身も余裕があるわけではなかった。
受験勉強は本格化していた。
中身が大人とはいえ、問題は簡単ではない。
子供の体は眠くなるし、集中力も思ったより続かない。
前世の知識があっても、計算力や暗記は地道に積むしかない。
石丸家の謎も気にはなっていた。
蔵の前で聞こえた言葉。
願いは血に残る。
あれが何だったのか、今でも分からない。
だが、今の俺には調べる手段が少なすぎる。
自由に動けない。
金もない。
大人の会話に入り込めない。
結局、目の前の勉強をするしかなかった。
恒一とは、以前ほど会わなくなっていた。
小学校の学年が上がるにつれて、クラスも遊ぶ相手も少しずつ変わっていく。
それでも、家は近い。
会おうと思えば会える距離だ。
たまに学校帰りに顔を合わせると、恒一は相変わらずノートに絵を描いていた。
「まだ描いてるのか」
「うん。おもしろいから」
変わらないな、と思う。
俺は徹として、前とは違う道を進もうとしている。
けれど恒一は、俺が知っている黒沢恒一の道を、ゆっくり歩いているように見えた。
どこまで同じ未来へ向かうのか。
どこで変わるのか。
それはまだ分からない。
そして受験の日が来た。
正直、手応えはあった。
結果も、合格だった。
由香里は泣いて喜んだ。
「すごいじゃない、徹!」
優子も珍しく素直に笑った。
「やるじゃん」
泰造は新聞を畳み、俺の前に立った。
そして、短く言った。
「よくやったな」
それだけ。
でも、その一言は思ったより嬉しかった。
前の人生で、誰かにこんなふうに認められることは少なかった気がする。
いや、もしかしたらあったのに、俺が気づけなかっただけかもしれない。
その夜の食卓は、少し明るかった。
由香里がいつもより品数を増やし、優子も機嫌がよかった。
泰造も珍しく早く帰ってきた。
普通の家族の、普通の祝い事。
その光景を見ながら、俺は思った。
この家族も、守りたい。
恒一の母だけではない。
黒沢の家だけではない。
今の俺にとって、長浜家も確かに家族なのだ。
だが、その数日後。
その思いは、思わぬ形で試されることになった。
夜八時を過ぎても、優子が帰ってこなかった。
高校生なら、それくらい珍しくない。
だが由香里は、何度も時計を見ていた。
「遅いわね……」
泰造は食卓でビールを飲みながら、疲れた声で言う。
「そのうち帰るだろう」
「でも、最近ちょっと……」
「心配しすぎだ」
泰造はそう言ったが、由香里の表情は晴れなかった。
俺も、妙に落ち着かなかった。
胸の奥がざわつく。
ただの心配ではない。
もっと嫌な感じだ。
石丸家の祖父、源三の言葉が頭をよぎる。
勘が鋭い者が出る。
見えすぎる人間は、壊れやすい。
まさか。
そう思った瞬間、頭の奥がずきりと痛んだ。
「……っ」
視界が一瞬、白く滲む。
次に見えたのは、知らないはずの景色だった。
暗い路地。
自転車。
泣きそうな顔の優子。
数人の男。
そして、遠くで聞こえるバイクの音。
映像はすぐに消えた。
俺は息を呑む。
何だ、今のは。
想像か?
ただの不安が見せた幻か?
だが、胸騒ぎは強くなるばかりだった。
俺は立ち上がった。
「どこ行くの?」
由香里が驚いた顔をする。
「ちょっと外」
「こんな時間に?」
「すぐ戻る」
「徹!」
止める声を背に、俺は玄関へ走った。
靴を履き、外へ飛び出す。
子供の足は遅い。
息もすぐ上がる。
それでも走った。
さっき見えた景色を頼りに、路地へ向かう。
場所は分からないはずなのに、なぜか足が迷わなかった。
右。
左。
細い道。
古い自販機。
バイクの音。
頭の中の映像と、現実の景色が重なっていく。
そして角を曲がった先に、優子がいた。
制服姿のまま、壁際に追い詰められている。
前には、見知らぬ男が二人。
一人は高校生くらい。
もう一人は少し年上に見えた。
優子の腕を掴んでいる。
「離してよ」
「いいじゃん、ちょっと話すだけだって」
「帰るって言ってるでしょ」
声が震えていた。
間に合った。
そう思った瞬間、体が勝手に動いた。
「姉ちゃん!」
大声で叫んだ。
男たちがこちらを見る。
優子も目を見開いた。
「徹!? なんで……」
俺は息を切らしながら、できるだけ強く睨んだ。
小学生の威嚇など、たかが知れている。
だが、大声を出せば人目は引ける。
「お母さんが警察呼ぶって!」
もちろん嘘だ。
だが男たちは一瞬顔を見合わせた。
「なんだよ、ガキかよ」
「行こうぜ」
面倒になったのか、二人は舌打ちして去っていった。
バイクの音が遠ざかる。
足の力が抜けそうになった。
優子はしばらく呆然としていた。
それから俺に近づいてくる。
「徹……なんでここが分かったの?」
答えられなかった。
俺自身にも分からない。
ただ、見えたのだ。
優子が危ない場所にいるところが。
俺は息を整えながら言った。
「なんとなく」
「なんとなくって……」
優子の声が震えている。
強がっていた顔が崩れ、涙がこぼれた。
「怖かった……」
その瞬間、俺は思い出した。
赤ちゃんだった俺を覗き込んで、「かわいい」と笑った四歳の優子。
面倒を見てくれた姉。
少し生意気で、でも優しい姉。
俺はその人を、今、守れたのだ。
「帰ろう」
俺が言うと、優子は小さく頷いた。
帰り道、優子は何も話さなかった。
俺も聞かなかった。
ただ、二人で並んで歩いた。
家に着くと、由香里が玄関へ飛び出してきた。
「優子! 徹!」
その顔を見た瞬間、優子は泣き崩れた。
由香里が抱きしめる。
泰造も遅れて出てきて、状況を見て顔色を変えた。
「何があった」
優子は震えながら、少しずつ話した。
年上の男に誘われていたこと。
断りきれずに何度か会っていたこと。
今日は無理やり連れて行かれそうになったこと。
泰造は黙って聞いていた。
怒鳴るかと思ったが、何も言わなかった。
ただ、拳を強く握っていた。
その夜、俺は布団の中で眠れなかった。
優子を助けられた安堵。
それと同時に、恐怖もあった。
見えた。
確かに見えた。
あれは記憶ではない。
前世の知識でもない。
今、この人生で起こることの断片だった。
石丸の血。
願いは血に残る。
その言葉が、また頭の中で響く。
俺は未来を知っているから特別なのだと思っていた。
だが、違うのかもしれない。
この血筋そのものに、何かがある。
そしてそれは、俺の中でも目を覚まし始めている。
守れた。
今日は、守れた。
けれど同時に分かってしまった。
この力は便利なものではない。
使えば使うほど、きっと何かを削る。
それでも。
大切な人が危ないなら、俺はまた走るだろう。
この人生で初めて、そう思った。
未来のためではなく。
金のためでもなく。
ただ、目の前の家族を守るために。
第9話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、徹の努力が形になる一方で、
長浜家の家族としての絆が強く出る回でした。
優子を助けたことで、徹は初めて
前世の記憶ではない“何か”に触れます。
石丸家の血筋にある力が、
少しずつ徹自身にも現れ始めました。
次回は、今回の出来事をきっかけに、
家族の中で徹を見る目が少し変わっていきます。
引き続き、よろしくお願いします。




