■第8話 記憶と違う未来
未来を知っている。
そう思っていた。
けれど、本当に未来は決まっているのか。
一つの出会い。
一つの選択。
一つの小さな変化。
それだけで、人生は思っていたより簡単に形を変えるのかもしれない。
俺には、武器がある。
前の人生の記憶だ。
もちろん、すべてを覚えているわけではない。
小学生の頃に何を食べたとか、誰とどんな会話をしたとか、そんな細かいことまでは曖昧だ。
けれど、大きな出来事は覚えている。
時代の流れ。
有名人。
流行。
そして競馬。
特にG1の勝ち馬は、かなり頭に残っていた。
前の人生で好きだったものだから当然だ。
新聞やテレビで結果を見るたび、俺は胸の内で答え合わせをしていた。
記憶通り。
また記憶通り。
その積み重ねが、俺に妙な自信を与えていた。
二十歳になれば、馬券を買える。
そこで勝負できる。
いや、勝負というより、答えの分かっている試験のようなものだ。
元手さえ作れば、人生を一気に動かせる。
その金で、いい大学へ行く。
将来は事務所を立ち上げる。
必要なら音楽も学ぶ。
そして、まだ見ぬ誰かへ繋がる道を作る。
そんなふうに、どこか楽観していた。
だが、その日は違った。
日曜日の夕方。
居間では父の泰造が新聞を広げていた。
相変わらず口数は少なく、休日でもどこか疲れた顔をしている。
テレビでは競馬の結果が流れていた。
俺は何気ないふりをしながら、画面に視線を向ける。
その日の重賞。
勝つ馬は覚えていた。
有名なレースではない。
だが、前の人生で何度も資料を見た記憶がある。
勝つのは、たしか一番人気の馬だった。
強い勝ち方をして、その後も名前を残す。
そう記憶していた。
ところが。
『勝ったのは、八番――』
実況の声を聞いた瞬間、俺は固まった。
違う。
その馬じゃない。
勝つはずだった馬は、三着にも入っていない。
画面の中では、見覚えの薄い馬が先頭でゴールしていた。
泰造が新聞を見ながら小さく唸る。
「荒れたな」
荒れた。
その一言で片づけられるような出来事だった。
普通なら。
だが、俺にとっては違う。
これは、記憶と違う結果だった。
心臓の音が大きくなる。
俺の記憶違いか?
いや、あり得る。
全部を完璧に覚えているわけではない。
重賞の一つくらい、勘違いしていてもおかしくない。
そう考えようとした。
だが、不安は消えなかった。
もし記憶違いではなかったら?
もし未来が、もう変わり始めているのだとしたら?
原因は何だ。
俺が生まれ変わったことか。
恒一と友達になったことか。
石丸家の蔵の前で、あの言葉を聞いたことか。
考え始めると、止まらなかった。
「徹?」
由香里の声で我に返る。
「どうしたの? 顔色悪いわよ」
「なんでもない」
慌てて首を振る。
「ちょっと眠いだけ」
「そう? 無理しちゃだめよ」
由香里は心配そうに俺の額に手を当てた。
その手の温かさに、少しだけ落ち着く。
でも、胸の奥のざわめきは消えなかった。
その夜、布団の中で目を閉じても、レース結果が頭から離れなかった。
未来は固定じゃない。
その可能性が、急に現実味を帯びてきた。
もしそうなら、俺の計画は根本から崩れる。
競馬で資金を作る。
その金で人生を動かす。
そんな甘い算段は、未来が記憶通りに進むことが前提だ。
だが、未来が変わるなら。
俺は、ただの子供に戻る。
いや、ただの子供ではない。
記憶を持っている分だけ、期待して、焦って、失望する子供だ。
それは思っていたより厄介だった。
翌日。
学校へ行っても、気分は晴れなかった。
授業中、先生の声が遠く聞こえる。
黒板の文字を写しながらも、頭の中では別のことを考えていた。
未来がズレるなら、俺はどうするべきか。
知識に頼りすぎるのは危険だ。
英語も、ピアノも、勉強も、やはり自力で積み上げるしかない。
当たり前のことだ。
当たり前なのに、俺はどこかで近道を期待していた。
前の人生でうまくいかなかった分、今回は楽をして取り返したい。
そんな甘さがあったのかもしれない。
休み時間。
恒一がノートを持って教室にやって来た。
「徹、見て」
最近、恒一はよく絵を見せに来るようになった。
俺は少し気持ちを切り替えて、ノートを受け取る。
そこには、いつものようにキャラクターや怪獣の絵が描かれていた。
だが、その中の一枚で手が止まった。
女の子の絵だった。
長い髪。
大きな瞳。
笑っているようで、どこか寂しそうな表情。
子供の落書きにしては、妙に印象に残る。
「これ、誰?」
俺が聞くと、恒一は首を傾げた。
「わかんない」
「わかんない?」
「うん。なんか、描きたくなった」
胸の奥が、ざわついた。
見たことがあるような気がした。
いや、まだ見ていない。
この時代には、まだ存在していないはずの誰か。
だけど、なぜか知っている。
そんな奇妙な感覚。
「名前は?」
「まだない」
恒一は少し考えてから、鉛筆で絵の横に小さな文字を書いた。
レ。
たった一文字。
「なんでレ?」
「わかんない。でも、そんな感じ」
指先が冷たくなった。
レ。
その一文字だけで、俺の心は大きく揺れた。
レイナ。
まだ生まれていないはずの名前。
前の人生で、俺の人生を変えた存在。
もちろん、ただの偶然かもしれない。
子供の落書きだ。
深読みしすぎだと笑うこともできる。
だが、昨日見た記憶と違うレース結果。
石丸家の蔵の前で聞こえた言葉。
そして、恒一が描いた謎の少女。
偶然が重なりすぎている。
「徹?」
恒一が不思議そうに俺を見る。
「どうした?」
「いや……うまいなと思って」
「ほんと?」
「うん」
俺はノートを返した。
恒一は嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
未来は変わる。
でも、すべてが消えるわけじゃない。
形を変えながら、何かは確かに繋がっている。
記憶通りではない未来。
けれど、記憶の中にいるはずの人へ向かって、道はまだ伸びている。
放課後。
校庭の隅で、俺は恒一の絵をもう一度見せてもらった。
夕陽に照らされた紙の中で、少女は静かに笑っていた。
その顔はまだ曖昧で、名前もない。
それでも俺には、なぜか分かった。
この子はきっと、いつか俺たちの前に現れる。
いや。
現れるのではなく、辿り着くのだ。
俺たちが作る未来の先に。
「この子、また描く?」
俺が聞くと、恒一は少し考えてから頷いた。
「うん。なんか、もっと描けそう」
「そっか」
俺は空を見上げた。
未来がズレたことは怖い。
競馬の記憶も、人生逆転の計画も、絶対ではない。
だが、だからこそ分かったこともある。
俺は未来を当てるために生き直しているんじゃない。
誰かへ繋がるために、生き直している。
なら、記憶と違う未来でもいい。
その先に、君がいるなら。
夕方の風が、校庭を抜けていく。
恒一は隣で、また新しい絵を描き始めていた。
俺はその横顔を見ながら、静かに息を吐いた。
記憶は武器になる。
でも、答えではない。
この人生の答えは、まだどこにも書かれていない。
これから、俺たちが描いていくものなのだ。
第8話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、徹にとって初めて「記憶と違う未来」に触れる回でした。
前世の知識がすべて通用するわけではない。
未来は少しずつ変わり始めている。
その一方で、恒一が描いた謎の少女が、
まだ見ぬ誰かへの伏線として現れました。
未来は不確かでも、確かに繋がっているものがある。
次回は、この変化を受けて、徹が自分の進み方を少し見直していきます。
引き続き、よろしくお願いします。




