■第10話 見えてしまうもの
誰かを守れた。
その事実は、確かに嬉しかった。
けれど同時に、徹は気づいてしまう。
自分の中で目覚め始めているものが、
ただ便利な力ではないということに。
見えることは、救いなのか。
それとも、呪いなのか。
優子の事件から、長浜家の空気は少し変わった。
表面上は、いつもの生活に戻っている。
朝になれば由香里が朝食を作り、泰造は黙って新聞を読み、優子は制服に着替えて学校へ行く。俺も鞄を持って、いつものように学校へ向かう。
けれど、何もかもが元通りというわけではなかった。
優子は、帰りが早くなった。
以前のように「友達と遊んでくる」と言って遅くなることもなくなり、電話が鳴っても出る前に少し表情を硬くするようになった。
由香里は、そんな優子をあえて責めなかった。
ただ、食卓に優子の好きなものを一品増やしたり、何でもない会話を少し長く続けたりしていた。
母親らしい距離の取り方だと思った。
一方で、泰造は不器用だった。
「今日も遅くなるのか」
「ならない」
「そうか」
それだけの会話。
だが以前の泰造なら、その一言すら聞かなかったかもしれない。
優子も、ぶっきらぼうではあるが、完全に拒絶はしていなかった。
「お父さん、別に心配しなくていいから」
「心配くらいする」
「……ふーん」
優子はそう言って顔を背けた。
でも、その横顔は少しだけ照れているようにも見えた。
長浜家は、少しずつ修復していた。
それ自体は良かった。
問題は、俺だった。
優子を助けたあの日から、由香里が俺を見る目が変わった。
疑っている、というほどではない。
怖がっているわけでもない。
ただ、何かを考えるように俺を見る時間が増えた。
食事中。
宿題をしている時。
ふとした瞬間に、由香里の視線を感じる。
俺はそれに気づかないふりをした。
だが、いつまでも誤魔化せるはずがないことも分かっていた。
あの夜、俺は明らかにおかしかった。
何の手がかりもなく家を飛び出し、優子のいる場所へ辿り着いた。
大人ならともかく、俺はまだ子供だ。
説明がつかない。
数日後の夜。
優子が風呂に入り、泰造がまだ帰っていない時間だった。
由香里は台所で茶碗を洗っていた。
俺は居間で漢字ドリルを開いていたが、内容はほとんど頭に入っていなかった。
水の音が止まる。
「徹」
静かな声だった。
俺は鉛筆を止める。
「なに?」
由香里は手を拭きながら、俺の向かいに座った。
その表情は優しかった。
けれど、逃げられない空気があった。
「あの日のこと、聞いてもいい?」
来た。
そう思った。
「優子のこと?」
「うん」
由香里は少し迷うように視線を落としたあと、ゆっくりと言った。
「どうして、あの場所が分かったの?」
俺は答えを用意していた。
たまたま。
優子が行きそうな場所を考えた。
前に見かけたことがあった。
いくつか言い訳は作れた。
だが、由香里の目を見た瞬間、それを口にするのが苦しくなった。
この人は、俺の母だ。
今世の母だ。
嘘をつくことには慣れているはずなのに、なぜか由香里にはつきにくい。
「……なんとなく」
結局、俺は一番曖昧な言葉を選んだ。
「なんとなく?」
「うん。嫌な感じがした」
由香里は黙って俺を見る。
責めてはいない。
ただ、確かめている。
「場所も?」
「……うん」
「見えたの?」
心臓が跳ねた。
俺は顔を上げる。
由香里は、自分で言った言葉に少し驚いたような顔をしていた。
「ごめんね。変な聞き方して」
「……」
「でも、お母さんもたまにあるの」
その言葉に、今度は俺が固まった。
由香里は小さく笑う。
「見えるってほどじゃないわ。ただ、胸騒ぎがするの。今日は傘を持って行った方がいいとか、この道はやめた方がいいとか。誰かが無理して笑っているな、とか」
俺は黙って聞いていた。
それは、石丸源三が言っていた話と同じだった。
石丸の血。
勘が鋭い者が出る。
「昔から?」
「子供の頃からかな。でも、そんなの誰にでもあるでしょって思ってた」
由香里は少し遠い目をする。
「でもね、石丸のおじいちゃんは、よく言ってたの。うちの家は見えすぎる人が時々出るって」
見えすぎる人。
その言葉が、胸に重く落ちた。
「見えすぎると、どうなるの?」
俺が聞くと、由香里は少し表情を曇らせた。
「子供に話すことじゃないかもしれないけど……」
「聞きたい」
つい、強く言ってしまった。
由香里は少し驚いたように俺を見る。
それから、困ったように笑った。
「徹は、本当に子供みたいじゃない時があるわね」
危ない。
だが今は、その指摘より先を聞きたかった。
由香里は声を落とした。
「石丸の家は、頭の病気で亡くなる人が多いの。全部が全部そうじゃないけど、五十を過ぎたあたりから急に倒れたり、記憶が混乱したり、変なことを言うようになったり」
五十。
またその数字だった。
前世の俺の終わりと重なる。
由香里は続ける。
「おじいちゃんは、それを“見えすぎたせいだ”って言ってた。私は迷信だと思ってるけどね」
迷信。
そう思いたいのは分かる。
だが、俺にはもうそうは思えなかった。
優子のいる場所が見えた。
蔵の前で声を聞いた。
競馬の未来がズレ始めた。
全部が、ただの偶然では済まなくなっている。
「徹」
由香里の声が優しくなる。
「怖いことがあったら、ちゃんと言ってね」
「……うん」
「一人で抱えなくていいのよ」
その言葉に胸が詰まった。
一人で抱えない。
そんなことができれば、どれほど楽だろう。
でも俺には言えないことが多すぎる。
俺が本当は黒沢恒一だったこと。
死んで、徹として生まれ変わったこと。
未来を知っているはずだったこと。
そして、その未来が変わり始めていること。
全部話せるわけがない。
俺はただ、小さく頷くしかなかった。
翌日、学校で恒一に会った。
休み時間、恒一は相変わらずノートを持って俺の席に来た。
「徹、昨日の続き描いた」
そこには、前に見せられた謎の少女が、少しだけはっきりした顔で描かれていた。
まだ子供の絵だ。
だけど、前よりも印象が強い。
髪の流れ。
目の雰囲気。
どこか人を引き寄せるような表情。
「またこの子か」
「うん。なんか描きたくなる」
「名前は?」
「まだ分かんない」
恒一は鉛筆の先で少女の横に小さく丸を描いた。
「でも、この子、歌ってる気がする」
歌。
俺は思わず息を止めた。
レイナ。
前世で俺の人生を変えた少女。
歌うように笑い、人を惹きつけ、周囲を巻き込んでいった存在。
もちろん、この時点で恒一がレイナを知るはずがない。
だが、この絵は確実に何かへ繋がっている。
「徹ってさ」
恒一が不意に言った。
「たまに、先のこと知ってるみたいだよな」
心臓が嫌な音を立てた。
「なんで?」
「なんとなく」
その言葉に、昨日の自分の返答が重なる。
なんとなく。
それは便利な言葉だ。
でも、便利すぎる言葉でもある。
「この前もさ、雨降る前に早く帰ろうって言ったじゃん。あと、先生が怒る前にノートしまえって言ったり」
「たまたまだよ」
「ふーん」
恒一は納得したのかしていないのか、曖昧な顔をした。
それから笑う。
「まあ、徹は頭いいもんな」
その笑顔に少し救われる。
だが同時に、怖くもなった。
恒一は鈍いようで、変なところを見ている。
いや、こいつは俺なのだ。
自分が意外と何を見ていたのか、俺は今さら知っているのかもしれない。
その日の放課後、小さな出来事があった。
校庭で何人かがボール遊びをしていた。
俺は一人で校門へ向かっていたが、その瞬間、頭の奥が軽く痛んだ。
次の瞬間、映像というほどではないが、感覚が走った。
危ない。
右。
俺は反射的に一歩下がった。
直後、硬いボールが目の前を通り過ぎ、壁にぶつかった。
「ごめーん!」
誰かが叫ぶ。
普通なら偶然で済む。
だが、俺には分かった。
今、俺は避けたのではない。
先に分かっていた。
まただ。
能力が、日常の中に入り込んでいる。
しかも、前よりずっと自然に。
その夜、俺は机に向かいながら、ノートの端に小さく書き出した。
石丸の血。
見えすぎる人。
頭の病気。
五十から七十。
前世の死。
未来のズレ。
優子の事件。
恒一の絵。
書けば書くほど、偶然ではない気がしてくる。
だが、答えには辿り着けない。
俺は鉛筆を置き、両手で頭を抱えた。
怖い。
初めて、そう思った。
この力があれば、人を守れるかもしれない。
でも、使えば何かを失うのかもしれない。
俺は一度死んでいる。
今度も同じように、頭から壊れていくのだろうか。
そう考えた時、襖の向こうで足音がした。
「徹、まだ起きてるの?」
由香里だった。
「うん」
「無理しないのよ」
「分かってる」
由香里は少しだけ襖を開けた。
優しい顔だった。
その顔を見て、俺は思った。
この人も、きっと怖かったはずだ。
勘が当たりすぎること。
人の気持ちが分かりすぎること。
でも、それを特別な力だとは思わず、母親として家族を守るために使ってきた。
俺も、そうなれるだろうか。
力に振り回されるのではなく、力を持ったまま、普通に生きることができるだろうか。
「お母さん」
「なに?」
「石丸のおじいちゃんの家、また行きたい」
由香里は少し驚いた。
「どうして?」
「聞きたいことがある」
子供にしては不自然な言い方だったかもしれない。
だが、由香里はすぐに否定しなかった。
しばらく俺を見つめたあと、静かに頷いた。
「……今度、聞いてみるね」
「うん」
由香里が襖を閉める。
部屋に静けさが戻った。
俺はノートを見下ろす。
石丸家。
蔵。
願いは血に残る。
答えはきっと、あそこにある。
この力が何なのか。
なぜ俺が戻されたのか。
そして、これから何を守らなければならないのか。
まだ何も分からない。
けれど、もう見ないふりはできなかった。
見えてしまうなら。
聞こえてしまうなら。
俺は、その意味を知らなければならない。
たとえそれが、呪いに近づくことだとしても。
第10話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、優子の事件後の長浜家と、
徹の中で目覚め始めた力について描きました。
誰かを守れる力である一方で、
石丸家に伝わる「見えすぎる人」の話は、
徹にとって大きな不安にもなっています。
次回は、徹が再び石丸家へ向かい、
蔵と家系の秘密へもう一歩近づいていきます。
引き続き、よろしくお願いします。




