第81話 如月葵の躍進
ついに発売された如月葵のニューシングル。
最初は大きな話題にならなかったものの、彼女の歌声は少しずつ人々の心をつかんでいきます。
小さなステージから夢を追い続けてきた葵に、いよいよ大きな転機が訪れます。
五月二十一日、木曜日。
放課後の軽音部には、いつものように五人が集まっていた。
窓から差し込む午後の日差しが床に長い影を落とし、開け放たれた窓からは運動部の掛け声が聞こえてくる。初夏の風がカーテンを揺らすたび、机の上に置かれた楽譜がかすかにめくれた。
徹がキーボードの準備をしていると、こずえが思い出したように顔を上げた。
「そういえば、昨日発売された如月葵のCD、みんな聴いた?」
「聴いた聴いた! 『妄想シンドローム』、いい曲だったな」
真っ先に答えたのは達也だった。ドラムスティックを指先で回しながら、楽しそうに笑っている。
「前の曲もよかったけど、今回は特に明るくてさ。なんか、聴いてるだけで元気になるんだよな」
「うん。葵ちゃんらしい曲だよね」
こずえも頷いた。
徹は二人の会話を聞きながら、何気ない顔で鍵盤の音を確かめていた。
昨日発売されたCDには、自分が作詞作曲した『恋の素人』が収録されている。発売前に見本を聴いていたものの、実際に世の中へ送り出されると、やはり気になるものだった。
「俺は三曲目もよかったと思う」
春樹が楽譜を置いて口を開いた。
「『恋の素人』だっけ。メロディーが耳に残るんだよな。アレンジもよくできてるし、三曲目に入ってるのがもったいないくらいだ」
「分かる! 私もあれ好き」
春子が嬉しそうに頷く。
「歌詞も可愛いよね。恋をしてるときの気持ちが、そのまま曲になってる感じ」
徹は思わず指を止めそうになった。
作った本人を目の前にして、何も知らずに感想を話している。
だからこそ、余計な気遣いのない言葉が胸に響いた。
「ねえ、徹」
突然、春子に呼ばれて顔を上げる。
「何?」
「徹も聴いたでしょ? 今回のCD」
「うん。聴いたよ」
「私ね、今回は今までで一番好きかも!」
春子は満面の笑みを浮かべた。
「特に『恋の素人』! あの曲、すっごくいいと思うんだよね。歌詞もメロディーも可愛いし、葵ちゃんの声にぴったり!」
「そうなんだ」
「うん! 絶対ヒットするよ!」
春子は迷いなく言い切った。
徹は一瞬、返す言葉を失った。
自分が誰を思ってあの曲を書いたのか、春子は知らない。
前世で五十年を生き、恋愛だって経験してきたはずなのに、春子を好きになってからは、まるで初恋をした少年のように落ち着かなくなった。
そんな自分に「恋の素人かよ」と突っ込んだことから生まれた曲だった。
その相手が、今こうして目の前で曲を褒めてくれている。
「……そうだといいね」
徹は照れくささを隠すように笑った。
「何よ、その反応。もっと自信持ってよ!」
「いや、俺が自信持っても仕方ないでしょ」
「あっ、そっか!」
春子が笑うと、みんなもつられて笑った。
徹はそっと息を吐いた。
曲が採用されたときも、完成したCDを聴いたときも嬉しかった。けれど、春子の何気ない言葉は、それとはまた違う喜びを胸の奥に残していた。
五月も終わりに近づく頃、如月葵の新曲は少しずつ人々の耳に届き始めていた。
最初の週間ランキングでは、百位以内に名前がなかった。
徹はその結果を知っても、特に落胆しなかった。
葵はまだ全国的な知名度が高いわけではない。深夜のバラエティ番組や音楽番組に出演する機会は増えていたものの、誰もが知っている人気歌手とは言い難かった。
CDを発売したからといって、すぐに売れるほど甘い世界ではないことも分かっている。
ただ、今回の曲には人の耳を引きつける力があると感じていた。
それが少しずつ形になり始めたのは、発売から二週間ほどが過ぎた頃だった。
ある日の夕方、徹は学校帰りに立ち寄った文房具店で、聞き覚えのあるメロディーに足を止めた。
店内の小さなラジオから、『妄想シンドローム』が流れていたのだ。
軽快なリズムに乗って、葵の明るい歌声が店の奥まで響いている。
レジにいた店主は特に気にした様子もなく、商品の値札を付け替えていた。
徹はノートを手に取るふりをしながら、しばらくその曲に耳を傾けた。
自分が知っている葵の声が、こうして何でもない街角に流れている。
それが妙に嬉しかった。
さらに数日後には、商店街の衣料品店でも同じ曲を耳にした。
店先のスピーカーから流れる音楽に合わせて、買い物中の若い女性が小さく鼻歌を歌っている。
有線放送でも取り上げられるようになったらしい。
誰かが曲を聴き、気に入って、また別の誰かに伝える。
そんな小さな積み重ねが、目には見えないところで広がっているようだった。
翌週、週間ランキングに如月葵の名前が現れた。
五十五位。
徹は雑誌に掲載された順位を見つめ、思わず口元を緩めた。
百位圏外からの上昇だった。
学校でも、葵の名前を耳にする機会が増えていた。
「最近、如月葵の曲よく流れてるよな」
「昨日もラジオで聴いたよ」
「うちの姉ちゃんもCD買ったらしい」
休み時間、教室のあちこちからそんな会話が聞こえてくる。
徹は自分から話題に加わることはなかったが、耳に入るたびに嬉しくなった。
そして三週目。
順位は三十一位まで上がった。
放課後の軽音部でも、達也が興奮した様子で雑誌を広げていた。
「おい、見たか! 葵ちゃん、三十一位だって!」
「すごいね。先週よりかなり上がってる」
こずえが雑誌を覗き込む。
「だから言ったじゃん!」
春子は自分のことのように胸を張った。
「絶対ヒットするって!」
「まだ三十一位だけどな」
春樹が笑うと、春子は勢いよく振り返った。
「ここから上がるんだよ!」
「はいはい。期待してるよ」
徹はそんなやり取りを聞きながら、窓の外へ目を向けた。
初夏の空は明るく、校庭では部活動を終えた生徒たちが帰り支度を始めていた。
このまま順位が上がり続ける保証はない。
それでも、葵がこれまで積み重ねてきた努力が、ようやく多くの人に届き始めたことだけは確かだった。
六月中旬。
四週目の週間ランキングが発表された。
如月葵の新曲は、八位。
ついにベストテン入りを果たした。
その知らせを聞いたとき、徹は思わず声を上げそうになった。
初登場で百位圏外だったCDが、四週間で八位まで上がったのだ。
春子の予言が、現実になり始めていた。
そして、その勢いを受けて、葵のゴールデンタイムの音楽番組への出演が決まった。
金曜日の夜。
徹は夕食を終え、居間のテレビの前に座っていた。
普段なら自分の部屋で過ごしている時間だったが、今夜ばかりは落ち着かなかった。
「そんなに楽しみなの?」
隣に座った優子が笑う。
「そりゃ楽しみだよ。葵がゴールデンの音楽番組に出るんだから」
「そうよねえ。今までは夜遅い番組ばっかりだったものね」
由香里も台所から戻り、ソファに腰を下ろした。
父の泰造も新聞を畳み、テレビへ視線を向ける。
家族全員が、葵の出演を楽しみにしているようだった。
番組が始まると、華やかな照明に照らされたスタジオが映し出された。
人気歌手たちが次々に紹介され、観客席から大きな拍手が上がる。
そして、如月葵の名前が呼ばれた。
「出た!」
優子が身を乗り出した。
画面に映った葵は、明るい色の衣装に身を包み、満面の笑みで手を振っていた。
徹は思わず姿勢を正した。
以前、ショッピングモールの屋上で歌っていた葵の姿が頭に浮かぶ。
あの頃から、人前に出ることを怖がらない女の子だった。
けれど、今目の前にあるのは、全国の視聴者が見ている大きな舞台だ。
司会者から最近の人気について尋ねられると、葵は少し照れたように笑った。
「本当にびっくりしてます! この前まで、私のことを知らない人も多かったと思うんですけど」
そこで少し身を乗り出し、観客席へ向かって声をかけた。
「今日、初めて私を見た人、いますか?」
客席のあちこちで手が上がる。
葵はその様子を見て、ぱっと表情を明るくした。
「わあ、結構いる! じゃあ、今日覚えて帰ってくださいね! 如月葵です!」
客席から笑い声と拍手が起こった。
司会者も笑いながら応じる。
緊張している様子はほとんど見えなかった。
それどころか、初めて見る観客たちを自然と自分の空気に巻き込んでいる。
「相変わらずだなあ」
徹は思わず呟いた。
「葵ちゃん、すごい度胸ね」
由香里が感心したように言う。
「普通、あんな大きな番組に初めて出たら緊張するでしょうに」
「昔からあんな感じなんだよ」
徹が答えると、優子が笑った。
「でも、ああいう子って見てて楽しいよね。なんか応援したくなる」
徹も同じことを感じていた。
葵の魅力は、歌のうまさだけではない。
誰に対しても物おじせず、相手との距離を自然に縮めてしまう。
その明るさが、画面越しにも伝わってくるのだ。
やがて、歌の時間になった。
スタジオの照明が落ち、軽快なイントロが流れ始める。
『妄想シンドローム』
色とりどりの照明がステージを照らし、葵がリズムに合わせて身体を動かす。
その歌声は、以前よりもずっと伸びやかに感じられた。
カメラへ向かって笑いかけ、客席に視線を送り、ときには観客の手拍子に応えるように腕を振る。
広いステージを、一人で堂々と使いこなしていた。
徹はテレビから目を離せなかった。
曲の終盤、葵は観客へ向かって大きく手を振り、最後の音に合わせて笑顔を見せた。
スタジオいっぱいに拍手が響く。
「すごいじゃない!」
優子が嬉しそうに声を上げた。
「本当に立派になったわねえ」
由香里も頷いている。
泰造は多くを語らなかったが、満足そうにテレビを眺めていた。
徹は画面の中で頭を下げる葵を見つめながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
葵がどれほど歌うことを好きなのか、徹は知っている。
忙しい学校生活の合間に仕事をこなし、レッスンを重ね、どんな小さな舞台でも全力で歌ってきた。
その積み重ねが、今夜のステージにつながったのだ。
自分の曲が収録されたCDが売れていることも嬉しい。
けれど、それ以上に、葵が大きな舞台で楽しそうに歌っていることが嬉しかった。
番組が終わったあとも、徹はしばらくテレビの前に座っていた。
翌週。
如月葵の新曲は、週間ランキング四位に上昇した。
さらに、累計売上が二十万枚を突破したという知らせも届いた。
テレビ出演の反響も大きかったらしく、ラジオや雑誌で葵の名前を見かける機会はますます増えていた。
学校では、これまで葵に興味を示していなかった生徒たちまで曲の話をするようになっていた。
「この前のテレビ、見た?」
「見た見た。あの子、面白いよな」
「歌もうまいし、人気出るの分かる気がする」
徹はそんな会話を耳にするたび、ひそかに頬を緩めた。
春子も相変わらず上機嫌だった。
「ほらね! 絶対ヒットするって言ったでしょ!」
放課後の部室で、春子は得意げに笑った。
「本当に当たったな」
春樹が感心すると、春子は嬉しそうに頷いた。
「だって、いい曲だもん!」
「それにしても、二十万枚ってすごいよな」
達也が雑誌を眺めながら呟いた。
「こんなに売れたら、次の曲も期待されるだろうな」
「アルバムとか出すんじゃない?」
こずえの言葉に、春子が目を輝かせた。
「出してほしい! 絶対買う!」
徹はその会話を聞きながら、何も言わずに笑っていた。
売上が伸びれば、当然レコード会社も次の展開を考えるだろう。
葵の活動がこれからどう変わっていくのか。
徹自身も楽しみだった。
その日の夜、夕食を終えて部屋に戻ろうとしたところで、由香里に呼び止められた。
「徹、電話よ。木崎さんから」
「分かった」
徹は階段へ向けていた足を戻し、居間の電話へ向かった。
「もしもし、長浜です」
『やあ、徹くん。久しぶりだね』
受話器の向こうから、木崎鉄平の穏やかな声が聞こえた。
「お久しぶりです。葵のCD、すごいことになってますね」
『本当にね。僕たちも驚いているよ』
木崎は嬉しそうに笑った。
『最初はなかなか順位が上がらなかったんだけど、ラジオや有線で曲を気に入ってくれる人が増えてね。テレビ出演の反響も大きかった』
「見ましたよ。葵、すごく楽しそうでした」
『そうだろう? 本人もかなり喜んでいたよ。出演前は少し緊張していたみたいだけど、始まってしまえばいつもの葵だった』
徹はテレビの中で観客に話しかけていた葵の姿を思い出した。
あの明るさなら、初めて彼女を見た人の記憶にも残っただろう。
『それでね、徹くん。今日は報告があって電話したんだ』
「報告ですか?」
『今回のヒットを受けて、葵のアルバム制作が正式に決まったんだよ』
「アルバムですか!」
『それだけじゃない。コンサートツアーも組まれることになった。まだ会場や日程を調整している段階だけどね』
徹は思わず笑顔になった。
「すごいですね。葵も喜んでるでしょう」
『もちろん。アルバムもツアーも、本人がずっとやりたがっていたことだからね』
木崎の声にも、隠しきれない喜びがにじんでいた。
今回のヒットによって、葵の活動は確実に次の段階へ進もうとしている。
これまでのように小さな会場や深夜番組を中心に活動するだけではなく、より多くの人に歌を届ける機会が生まれるのだ。
「本当によかったです」
徹がそう言うと、木崎は少し間を置いた。
『ありがとう。それでね、徹くん。実はもう一つ相談があるんだ』
「何でしょう?」
『以前、君たちのバンドが作ってくれた曲のこと、覚えているかな』
徹は眉を上げた。
以前、葵のために『DIGITAL FANTASY』の五人で作った曲。
もちろん、忘れるはずがなかった。
「『夕暮れのホーム』ですか?」
『そう。その曲だよ』
木崎の声が、少し真剣なものに変わった。
『今回制作する葵のアルバムに、あの曲を収録したいと思っているんだ』
徹は思わず受話器を握り直した。
窓の外では、初夏の夜風が庭木の葉を揺らしていた。
以前のコンペでは採用されなかった、五人で作ったあの曲。
その名前が、思いがけない形でもう一度持ち上がったのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は如月葵の躍進を描きました。
持ち前の明るさと物おじしない性格で、少しずつ活躍の場を広げていく葵。これからの成長も楽しみにしていただけたら嬉しいです。
そして最後には、DIGITAL FANTASYにとっても思いがけない話が舞い込んできました。
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